根井三郎

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ねい さぶろう
根井 三郎
生誕 1902年明治35年)
宮崎県宮崎郡広瀬村福島(現在の宮崎市佐土原
死没 1992年平成4年)(満90歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 ミスター・ネイ(難民からの呼ばれ方)
出身校 日露協会学校修了
職業 外務省職員(戦前)、ソ連在ウラジオストク日本総領事館総領事代理
著名な実績 通称「命のビザ」を利用して逃れてきたユダヤ難民に対して、日本へ入国を認めた人物。

根井 三郎(ねい さぶろう、1902年明治35年) - 1992年平成4年))は、日本外交官杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクに逃れてきたユダヤ難民に対して、外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる[1]

経歴[編集]

前史[編集]

1902年明治35年)、宮崎県宮崎郡広瀬村福島(現在の宮崎市佐土原)出身[2]。広瀬尋常高等小学校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する[3]。長崎県立大村中学校(旧制)(現在の長崎県立大村高等学校)を卒業後、外務省留学生として外務省へ入省する[1]。1924年(大正13年)3月に日露協会学校を修了する[4]。なお、根井は日露協会学校において杉原千畝の二年後輩にあたる[2]

「命のビザ」への対応[編集]

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ人難民たちは、日本への通過を求めてリトアニアの在カウナス領事館の領事代理だった杉原千畝にビザ発給を要求し、杉原は外務省の訓令に反して1940年7月から9月にかけて約2千通以上の日本通過ビザを発給した。ユダヤ人難民の大半はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったソ連のウラジオストクへ向かった。

当時、在ウラジオストク総領事館の総領事代理だった根井に対して、外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民を福井県にある敦賀港行きの船に乗せ、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給した。1941年3月に根井と外務省が交わした電報は外交史料館に残っている。

なお、従来では杉原が発給したビザに根井が追認して署名したものが存在することは確認されていたが、根井自身が発給したビザはソ連の記録上にはあるものの、そのビザの実物は確認されていなかった[5][6]。しかし、2020年(令和2年)5月に著述家の北出明による調査によって、アメリカへ亡命したユダヤ人の子孫が根井発給のビザを持っていることが判明した[5][6]。そのビザには「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記されていた[6]

戦後[編集]

根井は戦後、1946年(昭和21年)3月30日に外務省を退職。1950年(昭和25年)6月10日付けで大蔵事務官として横浜税関での勤務を命ぜられる[7]。そして翌年には、入国管理庁への出向を命ぜられ1951年(昭和26年)11月1日付けで入国審査官に任命される[8]。以降は法務省に移り名古屋入国管理事務所(現在の名古屋出入国在留管理局)所長を最後に引退する。1992年に90歳にて他界する。根井は難民を助けた理由を語ろうとしなかったため、故郷でも功績は知られてはいなかった[1]

死後及び顕彰活動[編集]

福井県敦賀市の人道の港調査研究所代表であり、一般社団法人杉原千畝記念財団の理事でもある古江孝治は、2015年(平成27年)9月3日~8日まで福岡市アジア美術館で開催された「戦後70年記念事業 人道の外交官杉原千畝と命のビザを繋いだ日本人たち」展で根井三郎を紹介した。翌年には宮崎市で根井三郎顕彰会が発足したことに合わせて、9月24日に「根井三郎と命のビザ」の講演会が開催された。2019年(平成31年)3月2日には、佐土原総合文化センターで根井三郎顕彰講演会とトークセッションが開催された[9]。また、同年6月18日に行われた宮崎県議会6月定例会において、横田照夫県議より根井三郎の功績に対する評価をどう考えているのか問われた河野俊嗣知事は以下のように答弁している[10]

宮崎市佐土原町の御出身、根井三郎氏におかれましては、外交官であった氏の行動によりまして、多くのとうとい人命が救われたことなど、今御紹介がありましたように、近年、その功績が徐々に明らかになってきております。根井三郎氏は、国際的に知られる杉原千畝氏の「命のビザ」をバトンのようにつなぐために、外務省の命令に「おもしろからず」と異を唱え、ユダヤ系避難民の日本行きを認める決断をされ、多くの命を救われたわけであります。この決断は、戦時中の極限的な場面において、大変な困難を伴うものであったと思われますが、人道的な行為として高く評価されるべきものと感じております。

— 河野俊嗣知事、宮崎県議会会議録 令和元年6月定例会 6月18日-06号、252頁

登場する作品[編集]

映像[編集]

映画

脚注[編集]

出典[編集]

[脚注の使い方]

外部リンク[編集]