宇喜多忠家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
宇喜多忠家
Ukita Tadaie.jpg
宇喜多忠家像(岡山県立博物館蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長14年(1609年)?
改名 忠家、閑斎(号)、安心(法名)
別名 通称:七郎兵衛、土佐守[1]
官位 従五位下出羽守[2]
主君 宇喜多直家秀家
氏族 宇喜多氏
父母 父:宇喜多興家、母:阿部善定の娘
乳母:戸川秀安の母
兄弟 直家春家忠家伊賀久隆室、牧国信
基家?、詮家(坂崎直盛)坂崎大膳、女(富田信高継室)、女(高橋元種室)[2]

宇喜多 忠家(うきた ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将宇喜多興家の子で、宇喜多直家の異母弟(母は阿部善定娘、または阿部善定の下女[3])。乳母戸川秀安の母。

経歴[編集]

兄である直家を古くから補佐して、その創業を助けたという。特に天正6年(1578年)に毛利氏と共に尼子軍が籠もる播磨国上月城を攻めた際には兄に代わって宇喜多軍の総大将を務めている(上月城の戦い)。

天正9年(1581年)、直家が病死し、直家の嫡男・秀家が後を継いだが、10歳と若かった為、一門として補佐した。特に合戦では秀家の陣代として大将を務めることも多かった。備前富山城を居城とする。文禄元年(1592年朝鮮の役では軍の総帥・秀家の後見役として渡海している。役後、分家の家督を嫡子・詮家に譲り、隠居。慶長4年(1599年)、主君・秀家と、家老の戸川達安、忠家の子である詮家や古参の花房職秀などが対立した宇喜多騒動と呼ばれる内訌が起きると剃髪したという。そのまま大坂で隠居し、安心と名乗り慶長14年(1609年)に大坂で没したとされる。

忠家の嫡男・詮家は関ヶ原の戦いで東軍についた功績により津和野藩に封じられ、坂崎直盛と名を改めて幕府に仕えたが元和2年(1616年)、千姫事件により改易され、切腹した。

兄直家との関係[編集]

兄の直家を古くから補佐していたとされ、また兄の死後は甥である秀家の補佐に務めた。反面、策謀家であった兄を信頼しておらず、直家の前へ出る時は着衣の下に鎖帷子を着けていたと言われるほど、兄を警戒していた。

春家との同一人物説[編集]

忠家は春家と同一人物とされる説がある。

これは

  • 父・興家が備前福岡の阿部善定の下に逃れた2年後に病死しているにもかかわらず、善定の娘との間に春家、忠家の二人を得ていること。
  • 春家が守備したとされる砥石城、金山城、沼城などの拠点がことごとく忠家の記録と重なること。
  • 春家と忠家の2人の功績・記録が資料によって入れ替わりが見られ、業績や合戦への参加記録も重なること。
  • 春家の通称とされる「六郎兵衛」はごく一部資料のみで、古い資料には忠家と同じ「七郎兵衛」であること。
  • 忠家の子とされ、直家の養子となった基家が春家の子とされる資料も多いこと。

などから、忠家と春家が同一人物という説である。

脚注[編集]

  1. ^ 岡山市史』第二巻 1804頁
  2. ^ a b 津和野町史』第二巻(1976年)106頁
  3. ^ 湯浅常山の著書『常山紀談

関連作品[編集]