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姉川の戦い

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姉川の戦い
ファイル:Anegawa.png
布陣図(元亀元年6月28日)
戦争浅井朝倉討伐戦
年月日1570年8月9日
場所滋賀県長浜市姉川河原
結果織田徳川連合軍の勝利
交戦勢力
織田・徳川軍 浅井・朝倉軍
指導者・指揮官
織田信長
徳川家康
浅井長政
朝倉義景
戦力
34,000 18,000
損害
不明 不明
織田信長の戦い

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代元亀元年6月28日1570年8月9日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町(旧:東浅井郡浅井町野村 域)付近)で行われた合戦である。

因みに、当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称していた。「姉川の合戦」は徳川家における呼称である。『信長公記』などに合戦の記述があるが、簡潔な内容にとどまる資料が多く、合戦の詳細については不明な部分が多い。

概要

尾張愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長今川氏美濃国斎藤氏をそれぞれ撃破したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。北近江を治める浅井長政は、信長の妹であるお市の方の婿であり、織田氏と縁戚関係にあった。信長は浅井氏とともに南近江の有力大名である六角義賢親子を破り、足利義昭を奉じての上洛を果たした。

その後信長の上洛要求などを拒んで対立した越前国の朝倉氏に対し、元亀元年(1570年)4月に信長が越前へ侵攻を開始すると、朝倉とも縁(同盟関係、主従関係とも)のあった長政は信長から離反し、織田軍を攻撃した。 挟撃された織田軍は危険な状況に陥ったが、信長は「金ヶ崎退き口」と呼ばれる決死の退却で命からがら撤退した。

信長はこの反攻のために直ちに近江へ出陣すると、その軍力を恐れた坂田郡堀秀村などが信長に降った。浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。ついに6月28日、姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍28,000(27,000、30,000とする説もあり)と、浅井・朝倉同盟軍18,000(17,000とする説もあり)が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んで戦った。

戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙した。徳川方の酒井忠次小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始された。浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備えのうち11段までを打ち破る猛攻を見せ、信長を焦燥させる。しかし、織田側後詰として横山城のおさえについていた稲葉一鉄らが援軍にかけつけ危機を救い、続いて苦戦しつつも正面突破を強行した本多忠勝隊や、迂回して朝倉勢を横撃した榊原康政隊、徳川家康本隊の活躍で朝倉軍を破った徳川軍も増援にかけつけたことで浅井・朝倉連合軍は右翼から崩れ始め、北国往還道へ敗走を余儀なくされる。戦闘は午前5時に始まり午後2時まで続いたと伝えられており、戦死者は浅井朝倉方で1800人、織田徳川方で800人、負傷者は各方その3倍と推定されている。合戦場付近の「血原」「血川」という地名は往時の激戦振りをうかがわせる。

磯野員昌の活躍についての諸説

員昌の11段崩しの話については諸説ある。

活躍否定説

  • 徳川家が長政の娘を娶っている関係上、徳川家の意により後に浅井側の活躍を誇張したもので実際は始めから織田側が圧倒していたとする説。
  • 徳川家の活躍により合戦に勝利したことを示すため織田家がおされ気味であったと記述しているとする説。
  • 上記に類似するが、後に織田家の権力を乗っ取った徳川家としては、信長を一流の武将でないと喧伝する必要があり、その事情から織田軍の劣勢を強調する必要があったとする説。
  • 上記のように戦死者は織田徳川方で800人、負傷者はその3倍であるとすれば、11段もの陣を崩したにしては織田軍の戦傷者が少なすぎるとする説。

活躍肯定説

  • 本願寺討伐や斉藤討伐でも苦戦していた織田軍であるから浅井軍との戦いに苦戦していても何らおかしくはないとする説。
  • 数に劣る浅井・朝倉軍が織田軍に対して夜襲を仕掛け浮き足立っていたが徳川や横山城からの救援により敵軍を撤退させたという説。
  • 信長が姉川の合戦後員昌の離間に心血を注いでいたことから員昌に手を焼かされたとみる説。

姉川の合戦の戦況に関する織田家の史料は簡潔な記述にとどまっていることから真実は定かではない。

合戦の影響

 姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が最も信頼していたと言われている重臣遠藤直経をはじめ、弓削家澄今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた多くの武将を失うこととなった。

その後、浅井朝倉連合軍は比叡山の僧兵衆や一向宗と手を結び、しばらく湖西の志賀郡などで激しい攻防戦が繰り返された。一方、織田方の被害も決して軽微なものとはいえず、姉川の合戦後の諸戦で森可成坂井政尚など織田家古参の諸将や、信長の実弟織田信治を失ってしまう。

そして業を煮やした信長は浅井・朝倉を支持する延暦寺を焼き討ちするなど、周辺反抗勢力の掃討に打って出た。また、軍事的な討伐では落ちないと判断した信長は調略によって浅井家の内部分裂を謀った。

その代表例が姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。姉川の合戦により領国が南北に分断されてしまっていたため犬上郡佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立してしまい物資の補給すらままならない状態であった。そこに目をつけた秀吉が浅井家家中に員昌内通の風説を流し、長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、長政は再三にわたる員昌からの物資補給の要請をすべて拒絶し、兵糧が残り少なくなった員昌はついに織田方に投降し浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。

その他

  • 浅井方と見られる土塁など野村町地域に残っている。

関連項目