大炊御門家信 (南北朝時代の公卿)
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 正和5年(1316年) |
死没 | 貞治5年(1366年)3月16日以降[1] |
改名 | 家信→空覚(法名) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇 |
氏族 | 藤原北家大炊御門家 |
父母 | 父:大炊御門冬氏、母:吉田経長の娘[2] |
兄弟 | 氏忠、冬信、家信、覚信 |
子 | 信経 |
大炊御門 家信(おおいみかど いえのぶ)は、南北朝時代の公卿。官位は正二位・権大納言。
内大臣・大炊御門冬氏の子。母は権大納言・吉田経長の娘。子は正二位権大納言に至った信経がいる。
経歴
[編集]- 正中2年(1325年)4月2日、叙爵。
- 嘉暦3年(1328年)6月13日、従五位上に昇叙。
- 元徳元年(1329年)9月26日、正五位下に昇叙。
- 元徳2年(1330年)7月17日、侍従に任ぜられる。11月7日、従四位下に昇叙。
- 元徳3年/元弘元年(1331年)1月13日、右少将に任ぜられる。
- 元弘2年/正慶元年(1332年)1月5日、従四位上に昇叙。4月21日、左中将に転任。
- 元弘3年/正慶2年(1333年)6月、従四位上と左中将を停止され、従四位下右少将に戻される。10月8日、禁色を許される。
- 元弘4年(1334年)1月5日、従四位上に昇叙され、13日には近江権介を兼ねる。
- 建武2年(1335年)5月23日、正四位下に昇叙。
- 暦応2年/延元4年(1339年)11月1日、左中将に転任。
- 暦応4年/興国2年(1341年)4月12日、従三位に叙される。
- 貞和3年/正平2年(1347年)9月16日、参議に任ぜられ、改めて左中将を兼ねる。
- 貞和4年/正平3年(1348年)3月20日、越前権守を兼ねる。
- 貞和5年/正平4年(1349年)1月5日、正三位に昇叙。同年9月13日、権中納言に任ぜられる。
- 観応元年/正平5年6月28日(1350年8月1日)、兄冬信が薨去。
- 観応2年/正平6年(1351年)6月26日、中納言に転正。
- 文和3年/正平9年(1354年)1月6日、従二位に昇叙。
- 延文3年/正平13年(1358年)1月6日、正二位に昇叙。
- 延文4年/正平14年(1359年)3月25日、権大納言に任ぜられる[3]。
- 延文5年/正平15年(1360年)4月16日、権大納言を辞退[4]。
- 貞治5年/正平21年(1366年)3月16日、出家。法名は空覚。