土岐頼貞

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土岐頼貞
土岐頼貞の塑像(作者不明、ギメ東洋美術館所蔵)
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 文永8年(1271年
死没 延元4年/暦応2年2月22日1339年4月1日
別名 頼定、伯耆入道(出家後)
戒名 定林寺殿前伯州大守雲石存孝大居士
墓所 岐阜県瑞浪市光善寺跡
官位 伯耆守
幕府 鎌倉幕府室町幕府美濃守護
氏族 土岐氏
父母 父:土岐光定、母:不明[1]
兄弟 隠岐国時高田衡国阿波教国笠毛光教(光時)、隠岐胤国蜂屋定親頼貞舟木頼重[2]
北条宗頼の娘
実子:頼直高頼(妙光)、乾道謙舟木頼衡墨俣頼連(周崔)、頼清(頼宗)頼遠頼仲長山頼基頼兼頼里頼明
養子:光賢(舟木頼重の子)、頼忠(第6子頼清の子)
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土岐 頼貞(とき よりさだ)は、鎌倉時代から南北朝時代武将守護大名歌人土岐光定の七男とされる。室町幕府の初代美濃守護。子に頼清頼遠長山頼基頼兼頼明など。

生涯[編集]

土岐氏清和源氏の流れをくむ美濃を地盤とする有力御家人美濃源氏で、鎌倉幕府から重んじられ北条氏とも縁を結んでいた。

若年時、頼貞は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃に永保寺多治見市)を開いている。騎射をよくし優れた歌人で『新千載集』などに和歌が残っている。

正中元年(1324年)、おなじ美濃源氏の足助貞親(加茂重成)と土岐氏の一族(頼員(舟木頼春)など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて、十男の頼兼、頼員、多治見国長[3]ら土岐一族は追討を受け、自刃して果てて、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている。『太平記』では頼貞は六波羅探題の兵を相手に奮戦して自害することになっているが、頼貞は生き延びその後の戦乱で活躍して美濃守護となっているので、『太平記』の記述には混乱がある。

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政(建武の新政)では美濃守護に任じられた。以後200年、美濃の守護は土岐氏が継承する。

失政が続いた建武新政府に対して尊氏が挙兵すると、頼貞は六男の頼遠と共に尊氏に従い南朝との戦いで数々の戦功をあげた。土岐氏は美濃一帯に一族の支流を配して「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成し、幕府軍を支える戦力となり、頼貞は「御一家(足利氏)の次、諸家の頭」と呼ばれ室町幕府内で重きを置いた。

また、禅宗に深く帰依し、美濃国内に数々の寺院を開基させたことでも知られる。八幡神社も頼貞の開基である。

延元4年/暦応2年(1339年)、死去。享年69。嫡男の頼清に先立たれたため、婆娑羅大名で知られる勇猛な頼遠が後を継いだが、光厳上皇に狼藉を働いて処刑されてしまう。土岐氏の惣領は十一男の頼明を経て(短期間だったため、一般には頼明は後二代として歴代には数えない)孫で頼清の子頼康が継ぎ、頼康の時に美濃に加えて尾張伊勢の守護を兼ねて、土岐氏は全盛期を迎える。

脚注[編集]

  1. ^ 資料によっては北条貞時の娘と記載されている。ただし貞時と頼貞の年齢差が1歳であり、世代的に合わないことから誤記である可能性が高い。
  2. ^ 舟木頼春の父。
  3. ^ 饗庭光俊の曾孫、国綱の孫、国純(国澄)の子。

参考文献[編集]

関連項目[編集]