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土岐頼益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐頼益
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 正平6年/観応2年(1351年
死没 応永21年4月4日1414年4月23日
別名 池田次郎(通称
戒名 興善寺寿岳常保大居士
墓所 岐阜県各務原市大安寺
官位 美濃守、左京大夫
幕府 室町幕府侍所頭人、美濃守護
主君 足利義満義持
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼忠
兄弟 島田光忠(月海)、頼益、頼兼、西郷頼音、鷲巣之康(忠之)、植村光兼、頼錦、田原頼郷、大桑頼名[1]、徳山貞長、鷹司冬基
実子:持益
養子:池田益貞[2]
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土岐 頼益(とき よります)は、南北朝時代から室町時代武将室町幕府侍所頭人、美濃守護土岐頼忠の次男。子に持益通称は池田次郎。官位は美濃守、左京大夫

生涯

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元中6年/康応元年(1389年)に従兄で土岐氏の惣領の美濃・伊勢守護土岐康行が3代将軍足利義満の挑発に乗って挙兵した(土岐康行の乱)。一族の多くは康行に味方したが、土岐西池田家の頼忠・頼益父子は室町幕府に味方して康行と戦い、元中7年/明徳元年(1390年)に康行は敗れて没落した。美濃守護には頼忠が任じられ、以後は土岐西池田家が主流となる。

応永2年(1395年)に頼益は父の跡を継いで美濃守護となった[3]。頼益は文武に優れた人物で、各地を転戦して戦功を挙げた。応永6年(1399年)の応永の乱では頼益は幕府軍に加わって和泉へ出陣していたが、従兄の土岐詮直(康行の従弟で乱後没落していた)が大内義弘に呼応して挙兵し、美濃へ乱入した。頼益はただちに兵を返して詮直を討ち、その首を義満に進上した[3]

頼益は義満と4代将軍足利義持から信任され、応永8年(1401年)に評定衆に列し、応永10年(1403年)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、幕府七頭の一家となり、同年に侍所頭人、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた。

一方、本国美濃では古くから土着している土岐氏庶流の多くは西池田家が主流となったことに反抗的で、頼益は統治に苦労し、外様の国人富島氏守護代に重用するようになった。頼益の時に目代斎藤氏が被官となり守護代となっている。

応永21年(1414年)4月4日に死去[3]享年64。戒名は興善寺殿寿岳常保大居士[3]。子の持益が跡を継いだ。

頼益の宝篋印塔は岐阜県各務原市大安寺に現存し岐阜県指定史跡となっているが[4]、現在の状態は昭和期に石を寄せ集めたものである[5]

脚注

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  1. ^ 佐良木光俊の父で、土岐成頼の祖父とする(『土岐系図』)。
  2. ^ 大桑頼名の四男、上記の佐良木光俊の弟、成頼の叔父にあたる。美濃池田氏の祖(『土岐系図』)。
  3. ^ a b c d 横山 2024, pp. 78–80.
  4. ^ 土岐頼忠並びに一族之墓[ときよりだたならびにいちぞくのはか] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)”. www.pref.gifu.lg.jp. 2024年8月6日閲覧。
  5. ^ 横山 2024, p. 81.

参考文献

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  • 平野邦雄瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。
  • 佐藤和彦錦昭江松井吉昭櫻井彦鈴木彰樋口州男共編『日本中世内乱史人名事典』新人物往来社、2007年。
  • 横山, 住雄『美濃土岐氏―平安から戦国を駆け抜けた本宗家の戦い』戎光祥出版株式会社、2024年4月10日。ISBN 978-4-86403-504-0