吉岡信敬

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吉岡信敬

吉岡 信敬(よしおか しんけい、1885年明治18年)9月1日 - 1940年昭和15年)12月7日)は日本の応援団員。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれたほどの人気者だった。

なお、名前の正式な読みは「のぶよし」であるが、一般的には「しんけい」と呼ばれており、また本人もそう称していた。

経歴[編集]

出生は山口県萩城下河添村説と東京府小石川区(現・東京都文京区)説があり、正確なところは分かっていない。ただ、吉岡家はもともと萩に住んでいたが信敬が小学校に上がる頃には小石川に住んでいた、ということは確かである。

1898年(明治31年)、早稲田中学校に入学し、野球部に籍を置く。プレーヤーとしてはけして上手くなかったが、応援活動に対しては熱心で、中学のみならず早稲田大学野球部の試合にも必ず顔を出して応援をしていた。早稲田高等予科生となっていた1905年(明治38年)、橘静二(後に早稲田大学学長・高田早苗の秘書)、吉田淳(後に朝日新聞記者)らと早稲田大学応援隊(当時は彌次、声援隊などといわれた)を結成し、隊長となる(橘・吉田の二人が副隊長)。以降、野球を中心に各種スポーツの応援には必ず姿を見せ、応援や場内整理にあたるようになる。この頃から「虎鬚彌次将軍」と呼ばれるようになり、バンカラの代名詞として、一学生でありながら東京のみならず日本全国の学生にまで名を知られる存在となっていった。1906年(明治39年)には応援の過熱がもとで早慶戦が中止になり(以後、1925年(大正14年)まで中止は続く)、このことで一部から批判を浴びるも、人気は衰えなかった。

1909年(明治42年)、親友の冒険小説家、押川春浪が主催したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に加入。同時期には春浪が主筆を務めた『冒険世界』『武侠世界』や安部磯雄主幹の『運動世界』といった雑誌に原稿を発表する。

1912年(大正元年)、早稲田大学を中退し、志願兵として麻布第一連隊に入営。除隊後は読売新聞などに勤めた。

春浪が1914年大正3年)に死去してからは天狗倶楽部とは距離をおくようになり、『冒険世界』や『武侠世界』で執筆をすることも減っていく。横田順彌はこれについて「信敬には、自分の行動が元で早慶戦が中止になってしまったという負目があり、実際、天狗倶楽部のメンバーの三分の一は、当時の早稲田野球部員で構成されていたから、その両者のパイプ役であった春浪の死によって、信敬は居づらくなったのだろう」と推測している(『明治バンカラ快人伝』、光風社出版、1989年)。以降は、時折雑誌のインタビューなどに登場することはあっても、以前のように表舞台には現れることはなくなった。

1940年(昭和15年)12月7日死去。57歳。墓所は雑司ヶ谷霊園

エピソード[編集]

  • トレードマークとなる無精髭は中学時代から生やしており、下級生からは「髭のおじさん」というニックネームを付けられていた。
  • 歌人窪田空穂とは、終生親しい付き合いがあった。
  • 窪田は、応援隊長当時の信敬の人気を示すエピソードとして「信敬とともに菓子を買いにいったところ、見知らぬ店員から『あなた吉岡さんでしょう。おまけして置きましたよ』とサービスをされた」「上京して旅館に逗留していた友人のもとへ信敬を紹介したところ、友人は宿の女中からしきりに『あなた、なぜ吉岡さんを知っていますか?』と不思議がられた」などということがあったと語っている。
  • 島崎藤村の詩を愛し、「母を葬るの歌」をよく口ずさんでは涙していた。
  • 園芸が趣味であり、「応援隊活動に生活の六分を費やしているなら、草花いじりには三分を費やしていた」とも評された。
  • 1906年の早慶戦の際に、白馬に跨がり剣を抜いて慶應グラウンドに進軍したという伝説がある(ただし、横田順彌の研究によれば、これは実際にあったことではない可能性が高い)。
  • 『運動世界』が行った「運動家十傑」という読者投票企画では、スポーツ選手ではないにもかかわらず10位に選ばれている。
  • 小説家島村抱月とは、抱月が早稲田野球部の合宿所の裏手に引っ越したことがきっかけとなり親しかった。
  • 彫刻家の藤井浩祐によって彫刻が作られたことがある。
  • 大の飛行機好きで、どこかで飛行会があれば野球の応援すらそっちのけで見に行ったほどであった。
  • 中央公論の編集者であった木佐木勝の『木佐木日記』(現代史出版会、1975-76年)には、1923年(大正12年)に小川未明宅を訪ねたところ先客がおり、それが信敬だったという記述がある。「(信敬が応援隊長として名を馳せていたのは)ちょうど自分がまだ小学生のころだったが、子供の自分までその名を覚えていたぐらいだから、当時の盛名が思いやられるのだった」「自分たちと全くちがった世界の住人のような吉岡将軍から、自分たちのまるで持っていないものを見せつけられて、どぎもを抜かれたかたちだった。あとで、何かしら吉岡将軍がうらやましいような気がした」など記している。
  • 小説家・佐藤紅緑の野球チームに入っていたことが有り、紅緑の息子で詩人のサトウハチローが早稲田中学に入学する際には保証人になっている。
  • 広津和郎は著書『年月のあしおと』(講談社 1963年)の中で、1937年(昭和12年)ごろ、信敬と路上で大喧嘩寸前になったと記している。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • 快男児快挙録 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内。同書のデジタルデータ。天狗倶楽部の一員であった河岡潮風による書で、信敬について一章を割いている。
  • 書生界名物男国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内。同書のデジタルデータ。同じく河岡潮風の書で、信敬について一章を割いている。