住吉神社 (京都市下京区醒ヶ井)

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住吉神社
醒ヶ井住吉神社全景
所在地 京都市下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町481
位置 北緯34度59分59.9秒
東経135度45分10.1秒
座標: 北緯34度59分59.9秒 東経135度45分10.1秒
主祭神 天照大神田霧姫神タキリビメ)、底筒男神中筒男神表筒男神神功皇后武内宿禰
社格 旧村社
創建 (社伝)保元2年、(異伝)文治2年
本殿の様式 住吉造
別名 (旧称)新住吉社、千載院
札所等 平安京・和歌三神の一社
例祭 5月 第3日曜 神幸祭、第4日曜 還御祭 (第5日曜のある年は変更あり)
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醒ヶ井住吉神社社殿
醒ヶ井住吉神社社殿

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、京都市下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町481にある神社。旧称は新住吉社。千載院。平安時代後期に、後白河天皇の勅旨を受け、和歌の守護神として、摂津国住吉大社より歌聖藤原俊成卿の邸宅に勧請された新住吉社を起源とする。応仁の乱による衰退後、永禄十一年、正親町天皇の勅旨により現在地へ遷座されたと伝わる。新玉津島神社、人丸神社とともに、平安京に勧請された和歌三神の一社として崇敬を集める。

なお、京都市下京区には、当社の他に、住吉神社(京都市下京区下松屋町通松原下る三丁目藪之内町617)、島原住吉神社(京都市下京区西新屋敷下之町1−6)の二社の住吉神社がある。

祭神[編集]

「夫れ住吉大神と申奉るは、天照大神、田霧姫神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、及び武内宿禰の諸神を鎭座する所にして、霊神にまします事は周く知る處なり、此御神は古來より和歌の神と申し奉るのみならず、海川守護の神にをはし、又此神を祈りて妊婦の安産せし例しありて、夙に朝野の恭敬最も篤し」(冷泉為紀筆『新住吉神社修造費募集主意書』(明治三十二年十一月)より、当社祭神に関する箇所を抜粋)

  • 当社の勧請元である住吉大社の祭神は、住吉大神として、第一本宮:底筒男命、第二本宮:中筒男命、第三本宮:表筒男命、第四本宮:神功皇后の4柱を祀るとされるが、また、社家の異伝として、第一本宮:天照大神、第二本宮:田霧姫命、第三本宮:底筒男命、中筒男命、表筒男命、第四本宮:神功皇后の6柱を祀るとも伝わる。当社の祭神は、この住吉大社社家異伝を継承していると思われる。

「攝津住吉神社四座。社家者説曰。第一天照大神。第二宇佐明神 田霧姫命是也。第三底筒・表筒・中筒、是為一座。第四神功皇后。社家説。與神書異。」(林羅山著『本朝神社考』より、攝津住吉神社の項目を抜粋)

「第一の御てんは天せう太神にておはします。そのひかしにつゝきて、第二の御てんをは、たきりひめのみことゝと申す。(中略)そのひかしにつゝきて第三の御殿あり。これそこつゝをのみこと・なかつゝおのみこと・うはつゝおのみことの三神、すなはちすみよし大みやう神にておはしますなり。そのひかしにつゝきて又第四の御てん有。是はしんくうくはうこうをいはひたてまつるとなり。」(『住吉の本地』(国学院大学図書館蔵)より、祭神に関する箇所を抜粋)

  • 神社本庁編纂の『平成祭データ』においては、当社の祭神として、「田霧姫神、(配祀)底筒男神、中筒男神、表筒男神、天照皇大神、神功皇后、武内宿禰命」と、田霧姫神を主祭神とし、他の六柱を配祀として記載されている。

由緒と歴史[編集]

「抑々當神社は 後白河天皇和歌の三神を平安城に勧請し給ふ叡示あり、保元二年藤原朝臣俊成勅を奉し、攝津國住の江より大神を左京五條烏丸の地に分祀し、新住吉の社と称し奉りしより、朝家の御崇敬浅からず、社殿巍々として、和歌所の別當之を奉齋し年を重ねしが、中世以来漸く衰頽し加るに應仁の兵燹に羅り、社殿皆烏有に皈せしも、幸に神寶のみ災を免れ、今尚存在す、永禄十一年 正親町天皇荒残を惜ませ給ひ、勅して現在の地に徒し社殿を造営せしめらる、爾来御歴代の御崇敬篤く、歌道御教授あるに際し御使を遣され御代拝あり、亦毎年御撫物を降し賜へり、中御門天皇正徳六年神輿、鉾、辛櫃、等の御寄附ありて今に傳ふ、寛延二年及び明和三年菊花章の提灯を賜はり、天明八年正月京師の大火に社殿類焼す、寛政十年金五十両を賜ひ、再造せしめられる、文久四年神輿修覆により 孝明天皇より銀二十枚を下賜せられ、元治元年七月兵火に再び類焼す、同九月更に金百両を賜ひ再造せしめ給ふ、又有栖川宮家を始め、皇族華族の諸家より時々献物の事あり、具に記すにいとまあらず」(冷泉為紀筆『新住吉神社修造費募集主意書』(明治三十二年十一月)より、当社由緒に関する箇所を抜粋)

「この集かくこのたび記しおかれぬれば、住吉の松の風久しく伝はり、玉津島の波永く静かにして、千々の春秋を送り、世々の星霜を重ねざらめや。」

  • 住吉神社と和歌所
頓阿(和歌所別当)

『草庵集』 神祇

「住よしの神のしめなはすなほなる道にはさぞな心ひくらん」

『続草庵集』 和歌所三首に、寄神祝

「住吉の神しまもればみづがきの久しき代まで道ぞさかへん」

尭孝(和歌所別当)

『尭孝日記』 文安三年正月二日 七社法楽歌

「住吉の松のめぐミのかしこさハ道につかへてなをぞあふがん」

主な祭礼[編集]

  • 歳旦祭:1月1日
  • 例祭:5月 第3日曜 神幸祭、第4日曜 還御祭 (第5日曜のある年は変更あり)
  • お火焚祭:11月
例祭の神輿(中御門天皇御寄附)

境内社[編集]

『住吉神社年中行事』(住吉神社蔵)によると、京都市山科区西野山の花山神社より、花山神社末社である熊丸神社が住吉神社境内へ勧請されたと伝わる。勧請年は不詳。明治五年に京都府庁に提出された『旧神官由緒書』には、住吉神社と花山神社の関係について、「花山社兼帯之儀ハ 往古ヨリ相傳之儀 書物ハ焼失ニ付 由緒年月ハ相分リ不申候」との記載がある。なお、大正七年刊行の『旧都巡遊記稿』下京区の部住吉神社の項目には、「末社に花山稲荷あり」との記載がある。

また、当熊丸稲荷神社には、昭和二十年に、元格致小学校に祀られていた稲荷神社が合祀されている。(『考古アラカルト73・奉納されたキツネたち』(公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行)参照。この合祀された稲荷神社は、当初は堤境山寿福院観音寺(元清荒神)の鎮守社であった稲荷神社であると推察される。『格致小学校沿革史』には、「本校々地は観音寺の旧跡なりしこと信ずべき証左一、二に止まざる」との記載がある。

境内社 熊丸稲荷神社

都名所図会拾遺』(天明七年)によると、もとは住吉神社の南側、醒ヶ井通高辻下るの人家の奥に祀られていた御霊祠が、明和六年、正二位前大納言冷泉為村卿により歌聖柿本人麻呂を祀る人丸御霊社として再興され、その後、明治六年、住吉神社境内へ末社として遷され現在に至る。

「人麿御霊社 醒井通高辻の南東側人家の奥にあり 初は只御霊祠と呼ぶ いにしへ俊成卿の宅辺に和歌三神を勧請し給ふ 住吉玉津島は現存して前編(『都名所図会』(安永九年))に見えたり 人丸祠これなし 然るに近きとし 明和六年の春 正二位上冷泉前大納言為村卿此一社の隠れ給ひしを惜み給ひ 此ほとりの街街所々の祠を尋ねさせ給ふに 竟に此祠其図に當れり 是遠祖俊成卿勧請の一社なりとて尊教し給ふ 町中も初めてこれを知って社を修造し祭事を改め三月十八日とす 為村卿よりも和歌を賜ふ 今町内に蔵む」(『都名所図会拾遺』(天明七年)より、「人麿御霊社」の項目を抜粋)

なお、『住吉神社年中行事』(住吉神社蔵)によると、当人丸神社には、人麿卿の愛硯並びに人麿卿神像二体が奉安されており、また明治十七年には正一位三房大明神、正一位武信大明神が合祀され、また年代不詳であるが伏見稲荷大社の正一位稲荷大神璽が合祀されていると記録に残る。

境内社 人丸神社

交通[編集]

参考文献[編集]

  • 『高辻住吉大明神縁起』(寛文五年八月)持明院基定筆 住吉神社蔵
  • 『都名所図会』(安永九年)
  • 『都名所図会拾遺』(天明七年)
  • 『菊号調書』(明治二年九月)京都府立総合資料館
  • 『古文旧記類』(明治三年五月)京都府立総合資料館蔵
  • 『旧神官由緒書』(明治五年八月)京都府立総合資料館蔵
  • 神社明細帳』(明治十七年八月)京都府立総合資料館蔵
  • 『新住吉神社修造費募集主意書』(明治三十二年十一月)冷泉為紀筆 住吉神社蔵
  • 『旧都巡遊記稿』(大正七年)京都府立総合資料館蔵
  • 『住吉神社年中行事』(成立年未詳)住吉神社蔵
  • 本朝神社考』(成立年未詳)林羅山
  • 住吉の本地』(成立年未詳)国学院大学図書館蔵
  • 平成祭データ』(平成七年六月)神社本庁
  • 『考古アラカルト73・奉納されたキツネたち』(平成二十九年八月)公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館発行

脚注[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]