伊藤道郎
伊藤 道郎 いとう みちお | |
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基本情報 | |
生誕 | 1893年4月4日 |
出身地 |
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死没 |
1961年11月6日(68歳没)![]() |
職業 | 舞踊家・振付師 |
伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本のダンサー、振付師。
東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業[1]。1911年に帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。同年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。1914年に第一次世界大戦の影響で英国に渡る。1915年、ホルストに 舞踊曲『日本組曲』の作曲依頼をした。1916年にはアイルランドの詩人イェイツと共に能を研究し、戯曲『鷹の井戸』の完成に貢献した。のちニューヨークに渡り『武士道(寺子屋)』を演出、1918年にはニューヨークにスタジオを開いた。アメリカでは各地を公演で巡業し、1929年にはハリウッドでスタジオを開いた。
ニューヨーク・ブロードウェイではミュージカルの振り付けを担当している。ニューヨーク時代にアメリカ人女性と結婚、2人の息子をもうけたが日米開戦とともに抑留。1943年(昭和18年)にアメリカ国籍の家族を残し、第二次日米交換船で日本に帰国した[2]。戦後はGHQに接収されていたアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)でオペレッタ「ミカド」を上演。本国以上の演出を行なって見せ、柿の木坂にスタジオを持っていた。アメリカでの活動も再開した[3]。1964年の東京オリンピックには開会式、閉会式の総合演出を担当したが、開催を待たずして死去した。
失われた映画「Dawn of the East」アリス・ブラディ、ケネス・ハーランと共に出演(1921年)
親族[編集]
演劇人の伊藤熹朔と千田是也(俳優座主宰)、作曲家の伊藤翁介は弟。俳優のジェリー伊藤は次男である。ニューヨーク時代に結婚した妻のヘラルド・ライトもダンサーで、長男のドナルド(40代で死去)とジェリーをもうけた[3]。真珠湾攻撃勃発によりスパイ容疑で2年間収監されたことから妻と離婚し家族とは音信不通となったが、戦後ジェリーが海兵として来日し再会した[3]。孫(ジェリーの子)は、兄妹デュオ「デビッド&ミシェル」として「菩提樹の丘」(1975年)で日本で歌手デビューした。ミシェルはその後ロサンゼルスでテレビ制作者となった[3]。姪(姉と古荘幹郎の娘)の古荘妙子はダンスの弟子で、道郎没後もダンススタジオを支え、伊藤道郎財団を設立した[3]。
関連項目[編集]
- 振り付け作品
- 浮気成金(1930年)
- お蝶夫人(1932年)
- Sunset Murder Case(1941年)
- 北海の子(1938年) - 出演作品
参考文献[編集]
- ヘレン・コールドウェル 『伊藤道郎 人と芸術』中川鋭之助訳、早川書房、1985 ISBN 9784152032638
- 藤田富士男 『伊藤道郎・世界を舞う―太陽の劇場をめざして』 武蔵野書房、1992
- 斎藤憐 『アーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガール』ブロンズ新社、1998 ISBN 9784893091413
- 旧版『幻の劇場 アーニー・パイル』新潮社 ISBN 9784103648017
関連文献[編集]
- 片岡康子 著『日本の現代舞踊のパイオニア: 創造の自由がもたらした革新性を照射する』新国立劇場運営財団情報センター2015年(平成27年)ISBN 978-4907223076
脚注[編集]
- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p385。
- ^ a b c d e New Legs for a LegendLos Angels Times, March 24, 1998
外部リンク[編集]
- 『伊藤道郎』 - コトバンク
- 関連家系図
- 武石みどり「伊藤道郎の日本的舞踊」『東京音楽大学研究紀要』第24巻、東京音楽大学、2000年、 35-60頁、 ISSN 02861518、 NAID 110004632601。
- 柳下惠美「伊藤道郎のアメリカにおける舞踊活動 -ロサンゼルスでの活動を中心に-」『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』第4号、早稲田大学総合人文科学研究センター、2016年10月、 213-224頁、 ISSN 2187-8307、 NAID 120005983757。