イザドラ・ダンカン
イザドラ・ダンカン(Isadora Duncan, 1877年5月26日- 1927年9月14日)は、20世紀を代表するアメリカのダンサー。モダンダンスの祖でもあった。
生涯[編集]
サンフランシスコで生まれる[1]。イザドラの両親はアイルランド人で、音楽教師であった母親から音楽の基礎教育を受けた。早くから古典舞踊を学んだが、その慣習的な動きに満足できず自分自身の創作する自由な舞踊を考えた。アメリカでダンスの仕事を少しした後、ヨーロッパに渡った。フランソワ・デルサルトに強く影響を受け、また古代ギリシャの壷やパルテノンの壁画などから感化を受けており、当時のギリシャ・リバイバルの波に乗り新しいダンスを生み出した。衣装もギリシャ風のチュニックを用い、靴を用いず裸足で踊った[1]。
ドイツのベルリンとフランスのパリ、そしてロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立、20世紀のダンス、舞踊だけでなく身体表現の形そのものを変革したといわれ[1]、「裸足のイザドラ」のあだ名で呼ばれた。演出家ゴードン・クレイグとは恋愛関係にあった。
しかし、1927年9月14日にフランスのニース近郊で首にまいたスカーフが自動車の車輪に巻き込まれ、イザドラは転倒して惨死した。享年50歳[1]。イザドラの遺体は荼毘に付され、遺灰がパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
イザドラの舞踊は即興的な面が多く一定の理論を持たなかったため、その死と共に途絶えたが近代舞踊に多大な影響を与えた事は高く評価されている[2]。また、イザドラは大のカメラ嫌いとしても知られ、イザドラの舞踊を記録した動画映像は屋外で隠し撮りされたものが一つ存在するのみである。この映像は1995年3月25日に「映像の世紀第1集 20世紀の幕開け カメラは歴史の断片をとらえ始めた」で放送された。
1968年にはヴァネッサ・レッドグレイヴ主演でイザドラの伝記映画『裸足のイサドラ』が制作された[2]。
逸話[編集]
ある時、イザドラ・ダンカンはイギリスの著名な作家バーナード・ショーに結婚を申し込み、こう言った、「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」。しかしショーはこう答えて拒絶した、「私の肉体とあなたの頭脳を持った子供が生まれたら大変ですよ」。
これは遺伝学・人類学の入門書や雑文などで時おり引用される逸話で、バーナード・ショーが皮肉屋として知られていたのは確かであるが相手はイザドラではなくサラ・ベルナール(フランスの大女優で、舞台を中心に活動)とする話もあり、真偽のほどは不明のままである。都市伝説の可能性もあるという。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典』 鈴木晶監訳、赤尾雄人・海野敏・長野由紀訳、平凡社、2010年。ISBN 978-4-582-12522-1
- ダンスマガジン編 『ダンス・ハンドブック』 新書館、1991年。ISBN 4-403-23017-2
- 岸田真著『《アレーナ・ゴルドーニ》――ゴードン・クレイグ演劇学校の構想――』(『演劇学論集 日本演劇学会紀要』日本演劇学会、1992年、p.47-61)
関連項目[編集]
- イサドラ - モーリス・ベジャール振付、マイヤ・プリセツカヤ主演で1976年に初演されたバレエ作品。
- ロイ・フラー - サーペンタインダンスの開発者で、イザドラを支援していた。