四式肉薄攻撃艇

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四式肉薄攻撃艇(よんしきにくはくこうげきてい)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の小型攻撃艇。略称はマルニ(〇の中に「ニ」か「に」と表記)、秘匿呼称は連絡艇(れんらくてい)。また、〇の中に「レ」か「れ」を書いたマルレマルレ艇の通称で広く知られる。

概要[編集]

全長5.6 m、全幅1.8 m、喫水0.26 m、満載排水量約1.5 t、主にトヨタ自動車日産自動車製の60馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250 kgまたは120 kg2個の爆雷を装備していた。最高速力は23~25 kt、航続時間は3.5時間。装甲はなくベニヤ製であった。緑色迷彩塗装を施したために、実戦部隊で名づけられたアマガエルの通称・愛称をもつ。甲一型、甲三型、甲四型のサブタイプがあり、約3,000隻が生産された。

そのほか開発中止となった派生型に、艇尾に噴射時間20秒のロケットを8基装備し、ロケット噴射中は50 ktの最大速力を発揮できる戊一型および戊二型(五式肉薄攻撃艇)、戊一型に熱線誘導装置を搭載し無人化した戊三型(指揮艇・マル迅とも)などがある。また、同時期に開発されていた五式雷撃艇は戊五型、五式砲撃艇は己二型とされていた。なお、乙型・丙型・丁型の開発計画が存在したのかは不明[1]

横浜ヨットなど中小の造船所で建造された。

開発の経緯[編集]

陸軍のマルレ艇に関しては海軍震洋と違い元々特攻兵器として開発されたものではなかった。計画当初は水際防衛を海軍に任せるのではなく陸軍自らの手で行うという発想のもとに、敵上陸船団に対し側背から大量の舟艇による奇襲によって攻撃をかけるという着想の元に開発された兵器である。この考えは陸軍船舶司令部大本営陸軍部、前線部隊将校からの意見具申がほぼ同時に行われたと見られ、1944年(昭和19年)5月に、第10陸軍技術研究所が姫路市に新設され、6月中旬に大本営より爆雷が投下できる構造の1人用攻撃艇の試作命令が出た。これに伴い、第10技研では主務科長:内山鉄夫中佐、小滝真吉技師、岩崎中尉らを中心に設計を開始した。この研究所の指示により南国特殊造船が7月8日に試作艇の第1号を完成させ、その3日後に千葉県岩井海岸において海軍の震洋と比較試験を行い、採用が決定している。これが甲一型である。

現代では特攻兵器として認識されているマルレではあるが、上述の通り震洋との大きな違いは最初から特攻兵器として開発されたものではないということである。従って震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、マルレは艇尾に爆雷を懸架する形式になっており、正式名称が示す通り大挙して高速で敵船団に奇襲をかけ肉薄し、敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものである。しかし、太平洋戦争大東亜戦争)の戦局が押し迫る中で、この攻撃艇を体当たり特攻艇として使用したほうが至近に爆雷投下して離脱し反復攻撃をかけるより戦果は確実に上がり、また技量もそれほど要らないということで体当たり作戦が採択されている。

1944年7月、サイパン島陥落の時期に陸軍は特攻兵器を開発・準備しており、大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の同年7月11日に、マルレ試作完成に関する次の記述がある。

「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施、自重1屯〔t〕、自動機関ヲ利用、速力20節(kt)、兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩〔kg〕)航続時間五時間、右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(サイパン上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ、速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ、今後ハ斯カル着想ノ下ニ、此種兵器を大量整備スルヲ要ス」[2]

サイパン島陥落により、日本陸海軍において正攻法では連合軍に太刀打ちできないことを認識し、以降は特別攻撃隊を大々的に編成し特攻を正規の作戦として採用した。1943年(昭和18年)に募集を開始した船舶や航空関連の特別幹部候補生出身者たちが、主にマルレの操縦者に選ばれた。

実戦運用[編集]

マルレは主に海上挺進戦隊に配備され、1945年(昭和20年)のルソン島の戦い沖縄戦に実戦投入された。後者の戦線では特に渡嘉敷島など慶良間列島に配備された部隊が有名である。また、本土決戦に備えて日本の太平洋岸の多くの海岸には、連合軍の上陸部隊・支援部隊を迎え撃つためにマルレの秘密基地が作られた。例として現在の千葉県外房海岸には洞窟陣地が残っている。

攻撃方法は敵軍の上陸海面を予想して近くに洞窟などを利用した秘匿基地を作り、上陸船団が近くに来ると夜間に数十隻からなる攻撃隊で一斉に攻撃を仕掛け、体当たりもしくは至近への爆雷投下で艦艇もしくは輸送船を撃破するというものであった。指揮官の統一指揮の下で一斉出撃する計画だった。

外洋航行を意図していないモーターボートゆえに、各地に配備するには海上輸送に頼らなければならなかったが、大戦末期は既に日本近海を含め多方面で制海権を喪失していた為に輸送途中で海没したものも多い。初期に編成された30個戦隊のうち輸送途中に遭難したものが16個戦隊にも及び、第19戦隊に至っては生存者僅か7名という大損害を蒙った。第二次大戦終戦までに輸送中の損害で挺進戦隊員だけで戦死者317名、マルレの喪失1,300隻に達した。基地を管理する基地大隊や整備中隊も輸送中の損害が多く、マルレの実力が発揮できないことがあった。

戦果としては、若干の輸送船や小型艦艇を撃沈破したことがアメリカ軍の史料で確認できる。ただし、海軍の震洋も同水域で作戦していることもあり、いずれの戦果かは不明確な点も多い。ルソン島の戦いでは、1月9日から10日にかけての夜、リンガエン湾で海上挺進第12戦隊の40から70隻が出撃し、歩兵揚陸艇改装の支援艇「LCI(M)-974」「LCI(G)-365」を撃沈、駆逐艦2隻・戦車揚陸艦3隻・輸送船1隻を損傷させる戦果を挙げた[3]。また、1月31日にナスグブ方面で海上挺進第15戦隊の第2中隊が、駆潜艇「PC-1129」を撃沈している[3]。沖縄戦では海上挺進第26戦隊が4月7日に駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」(en)と他3隻を撃破、第28戦隊が4月27日に駆逐艦「ハッチンス」(en)撃破、ロケット砲艦1撃破の戦果を挙げている[3]。しかし、一度攻撃した後はアメリカ軍の警戒が厳しくなる上、徹底的な掃討作戦が行われたために再攻撃が出来ない場合が多く、攻撃後の部隊は基地が攻撃されマルレが破損したり、再出撃の機会を待っているうちに地上戦に巻き込まれ基地ごと全滅してしまうことが多かった。

注記[編集]

  1. ^ 松原茂生遠藤昭 『陸軍船舶戦争』 星雲社1996年、278・335 - 337頁。ISBN 4795246335
  2. ^ 保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書、2005年) ISBN 4061497979 p167~p168より引用。
  3. ^ a b c The Offiicial Chronology of the US Navy in World War II

マルレが登場する文芸作品[編集]

関連項目[編集]