ジンギスカン (グループ)
ジンギスカン Dschinghis Khan | |
---|---|
2023年のジンギスカン | |
基本情報 | |
別名 | Genghis Khan |
出身地 | 西ドイツ、ミュンヘン |
ジャンル | ディスコ、ポップ・ミュージック |
活動期間 | 1979年 - 1985年、2005年、2007年 - |
レーベル | Jupiter Records |
共同作業者 | ラルフ・ジーゲル |
公式サイト | https://dschinghis-khan.com/en/ |
メンバー | #The Legacy Of Genghis Khan節を参照 |
旧メンバー |
スティーヴ・ベンダー ルイス・ヘンドリック・ポトギター レスリー・マンドキ ヴォルフガング・ハイヒェル エディナ・ポップ ヘンリエッテ・シュトローベル |
ジンギスカン(ドイツ語: Dschinghis Khanまたは英語: Genghis Khan)は、1979年に西ドイツで結成された音楽グループ[1][2]。グループ名はモンゴル建国の英雄「チンギス・カン」に由来しており[1]、世界的にはドイツ語の『Dschinghis Khan』で表記されているが、日本では契約の関係から英語に由来する『Genghis Khan』表記が用いられている。
初期メンバーはルイス、エディナ、ヘンリエッテ、スティーヴ、ヴォルフガング、レスリーの男女6人で[1]、1981年にスティーヴが脱退したため以降は5人で1985年の解散まで活動した。2005年に再結成されたが、メンバーの入れ替わりなどを経て近年は複数の「ジンギスカン」の名乗るグループが乱立する状態となっていた。
歴史[編集]
1979-1985年[編集]
ジンギスカンは西ドイツの音楽プロデューサーで作曲家のラルフ・ジーゲルと、作詞家のベルント・マイヌンガーによって企画された[1][3][4]。2人は1978年にボニーMがリリースしてヒットしたグリゴリー・ラスプーチンをモチーフとした楽曲『Rasputin(怪僧ラスプーチン)』にインスパイアを受け、チンギス・カンをモチーフとした楽曲『Dschinghis Khan(ジンギスカン)』を制作[3][4]。これをヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」にエントリーし、予選の6週間前に楽曲を歌うグループのメンバー集めを始めた[1][3][4]。発足時のメンバーは、立ち位置の右から順に
- スティーヴ・ベンダー(西ドイツ出身、当時32歳)
- エディナ・ポップ(ハンガリー出身、当時37歳)
- レスリー・マンドキ(ハンガリー出身、当時26歳)
- ルイス・ヘンドリック・ポトギター(南アフリカ共和国出身、当時28歳)
- ヘンリエッテ・ハイヒェル(オランダ出身、当時25歳)
- ヴォルフガング・ハイヒェル(東ドイツ出身、当時28歳)
ジーゲルはジンギスカンを象徴する存在となる人物、特にダンサーを求めていたとされており、友人のビリー・ミレに紹介されたルイスの加入を決定した[3]。続いてスティーヴ、レスリー、エディナが決まったが、ジーゲルの構想には「歌がうまく見た目も良い」男女1人ずつが欠けており、当時ジーゲルのギタリストであったビリー・ラングから友人のヴォルフガングを紹介され、ヴォルフガングは妻のヘンリエッテの加入を提案した[3]。面談を行った人数は、最初の2週間だけで15人にのぼった[3]。
こうしてメンバーが決まったのが予選の5週間弱前[3]。衣装制作はハイジ・モーザー、振り付けはハンネス・ウィンクラーによって行われた[3]。ルイスとヘンリエッテはダンスの素養があったが[3]、他のメンバー4人、とりわけスティーヴは腰痛の持病があったことから[要出典]振付の練習には大苦戦していた。なお、当時夫婦であったヴォルフガングとヘンリエッテ以外は全くの初対面であったため、お互いのことをよく知るため練習の合間を縫っては全員で買い物や散歩に出掛けていた[3]。特にスティーヴ、エディナ、レスリーの3人は出身地や年齢という共通点から気が合っていたともされ、よく行動をともにしていた[4]。
1979年のユーロビジョン・ソング・コンテストでは、3月17日の西ドイツ予選でグランプリを獲得する[3][4]。3月31日にイスラエルで行われた本選では4位に終わるが、コンテストの様子は欧州18か国に生中継されており、クセになる楽曲や風変わりなビジュアルのインパクトで話題となる[1][4]。正式にレコードデビューすると西ドイツ国内だけで50万枚を売り上げて4週間連続でチャート1位を記録するとともに、当時は世界的にディスコブームが到来していたこともあり『Dschinghis Khan』は世界的な大ヒットとなる[4][5]。日本では1979年8月6日付から5週連続1位を獲得し、イスラエル・オーストラリア・スウェーデンなど20か国以上でもチャートにランクインした[1][3]。
ジンギスカンが国内予選を制覇した時点でジーゲルはすでに『Dschinghis Khan』に続くアイディアを持っており、すぐにモスクワオリンピックに向けた『Moskau(めざせモスクワ)』が制作された[1][3][5][6]。この頃同時に、レスリーは『Puszta(プスタ)』の作曲、スティーヴは『Pass auf, der Drache kommt(ディスコ・ドラゴン)』の作詞をするなど個人の音楽活動も活発化しており、ジーゲルは長期的にはグループとしてのコンセプトを持ちつつもそれぞれが独立して活動するという将来性も示す[3]。
その次のシングルについて考えていたジーゲルはドイツ作家カール・マイの小説に登場する「ハジ・ハレフ・オマール」について歌うことを思いつき、制作されたものが『Hadschi Halef Omar(ハッチ大作戦)』である[3][5]。この楽曲は第2ドイツテレビの大晦日向け番組の収録で初披露された[3]。
1979年はドイツ国内のバンビ賞を始めとし、ルクセンブルクの「Goldenen Löwen」など20か国以上で賞を受賞[5]。また、ドイツ映画『Sunnyboy und Sugarbaby』にジンキスカンとして出演しパフォーマンスもしている。
1980年の『Rom(栄光のローマ)』もヒットしたが、1981年には様々な要因からスティーヴがグループを脱退する[5]。スティーヴ脱退後も『Pistolero(哀愁のピストレーロ)』をリリースし、ややフォーク寄りとなった『Loreley』は批判もありながらヒットしたが、1982年の『Der Dudelmoser(アルプスのドゥーデルモーザー)』は後にジーゲル自身も認めるほど成功とは言い難く[5][7]、それ以後は目立ったヒット曲に恵まれなかった。
1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会に向けてラルフ・マリア・シーゲル(ラルフ・ジーゲルの父)が作曲した『Mexico(めざせメキシコ)』を最後にジンギスカンは解散した[1][7]。
1986-2004年[編集]
1986年にはレスリーの呼びかけに応じて短期間「Dschinghis Khan Family(ジンギスカンファミリー)」として活動した[7][8][9]。メンバーはオリジナルメンバーのレスリー(ドラム)、ヘンリエッテ(ボーカル)、ルイス(キーボード)の3人に、ユルゲン(ギター)、クリスティン(ボーカル)、マイク(ベース)の3人が加わった[7][8][9]。ジンギスカンファミリーはジーゲルとマイヌンガーによる楽曲『Wir gehör'n zusammen』でユーロビジョン・ソング・コンテストの国内予選に出場し2位となった[7][8][9]。同年にはレスリーらによる楽曲『Can't Stop Now』もリリースされた[9][10]。
解散後は、先に脱退していたスティーヴは音楽プロデューサー、エディナはソロのポップ歌手[11]、レスリーは音楽プロデューサー兼ロックミュージシャン[12]として活動するなど別々の道を歩み、ヘンリエッテはヴォルフガングと離婚しシュトローベル姓へと戻った。ルイスは南アフリカに帰国していたが、後天性免疫不全症候群(エイズ)を患い合併症により1994年11月12日に死去した[5]。
ジンギスカン解散後も日本では熱狂が続き、1995年には日本のテレビ番組『なるほど!ザ・ワールド』に招かれて来日し[9]、『Dschinghis Khan』『Moskau』を歌唱した。ただしこの時すでにルイスは亡くなっており、ヴォルフガングとヘンリエッテは説得できなかったために、参加したのはスティーヴ、エディナ、レスリーの3人であった[9]。なお、グループとしての日本公演は1979年にも企画されたが実現しておらず[3]、この時が初来日であった。[要出典]
2005年[編集]
2005年、音楽マネージャーのハインツ・グロスがロシアでのジンギスカン復活コンサートを企画してスティーヴに連絡を取り、以前から再結成の意欲を持っていたスティーヴの手引により同年秋には20年ぶりにオリジナルメンバーが集結した[7][9][13][14]。ただし、ルイスは前述の通り既に亡くなっており、解散後最も成功していたレスリーはすでにジンギスカンでの活動に興味を失っていたとされており不参加であった[9]。オリジナルメンバーのスティーヴ、エディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングのほか
- シュテファン・トラック
- ダニエル・ケスリンク
- エプル・カーヤ
の3人のゲストが加わり、この3人がグループの象徴となっていた中央で踊るルイスの役割を務めた[7][9][14]。12月17日にモスクワのオリンピックアリーナで3万人の観衆を集めた大規模なコンサートが行われ、そのメインアクトであったジンギスカンの復活コンサートでは、1979年のアルバム『Dschinghis Khan』の全曲が演奏された[9][13]。なお、復活コンサート時にはスティーヴは既に末期肺がんに侵されており、闘病の末に2006年5月7日に死去した[13]。2007年に発売されたアルバムに収録された『Wie Feuer im Wind』はルイスとスティーヴに捧げられた楽曲である。
復活コンサートの様子はORT1が衛星を通じて世界中に放送しており、ジンギスカンのマネジメントには世界中からオファーが殺到した[9][13]。当初は1回きりの予定であったが、スティーヴが亡くなると残されたオリジナルメンバー3人はグループの活動を継続すべきか相談し、ルイスとスティーヴを偲んで活動を続けることを決定する[13]。
なお、この頃の日本のインターネット上では『Moskau』が空耳ソングとして注目され、「もすかう」のタイトルで当時を知らない世代にも広く知られることとなった[6]。
2006-2013年[編集]
2006年7月15日にウランバートルで行われた、チンギス・ハーンによる建国800周年を祝う祝賀行事にチンギス・ハーンの子孫とともに出演した[13]。このイベントにはオリジナルメンバーに加えてクラウス・クプライトが率いる「The Legacy of Genghis Khan(ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン)」(以下「The Legacy」)が出演しており[9]、The Legacyのメンバーはクラウスが演じる「プリンス・イゲイ・カン(Prince Igei Khan)」のほか「エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan)」「オゴデイ・カン(Ögödei Khan)」といった役名で紹介された[15]。
モンゴルに続いて旧ソビエト連邦のいくつかの共和国でコンサートを行う[9]。2007年5月にアルバム『7 Leben』をリリースすると、その直後のZDFショー「Willkommen bei Carmen Nebel」で復活後初めてドイツ国内で公演した[9]。2010年ごろからはクラウス・クプライトがオリジナルメンバーとともに、メディア等にも出演するようになる[9]。
2014-2020年[編集]
2014年にヴォルフガングは将来の音楽やコンテンツの方向性についての意見の相違などを理由として脱退したが、この事実は長らくグループの広報担当から発表されなかった[9]。ヴォルフガングは2018年初めに東ヨーロッパで「ジンギスカン」名義のバンドで活動を開始するが[9][14]、これがきっかけとなり複数の「ジンギスカン」が存在することとなる。
オリジナルの「ジンギスカン」[編集]
ハインツ・グロスが率いるジンギスカンは2018年4月5日に、2005年の復活から使用され続けていた「ジンギスカン」のロゴを単語・画像商標として登録する[16]。その直後の4月9日には公式Facebookにて、3月25日にジーゲルと生涯にわたる長期契約を締結したことが発表される[9][17][18]。この頃からクラウス・クプライトが振付師として任命される[5]。
FIFAワールドカップロシア大会に向けて『Moskau』に4か国語のアレンジが加えた『Moskau Moskau』をリリースし[1][19]、ドイツ語版・英語版ボーカルのジェイ・カーン、ロシア語版のアレクサンダー・マリニンと娘のウスティーニャ、スペイン語版のホルヘ・ヒメネスとマリファー・メドラノとともに2018年5月31日のイベントに参加した。
2020年1月にはエディナが引退を発表するが[20]、間もなく新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより一時的に活動停止を余儀なくされる[21]。9月にはウェブサイト「dschinghis-khan.com」の管理がハインツ・グロスからクラウス・クプライトへと移される[22][23]。
「ジンギスカン」の派生と対立[編集]
2005年の復活コンサートに加わったシュテファンは、2006年にはジンギスカンを離れてエプルとともにジンギスカンのカバーバンド「a'con」を開始[24]。後にダニエルも加わってバンド名を「Khaan」へと変え、2007年5月には「元グループとの区別の明確化」のためにバンド名を「Rocking Son」(あるいはRocking Son of Dschinghis Khan)へと変更していた[24]。シュテファンは2010年に英国で設立した企業「Rocking Son Ltd」を2016年に「Dschinghis Khan Music Ltd」に変更する申請をする[25]など「Dschinghis Khan」に関する権利を主張するようになっていた。
シュテファンは2018年中ごろに、独自の活動を始めたヴォルフガングと共同で「ジンギスカン」として活動開始するが、この時シュテファンはロシア・ウクライナ・スペイン、ヴォルフガングはドイツでそれぞれ「ジンギスカン」の関する商標を有していた[9][14]。前述の通り、同年4月にハインツとジーゲル側も商標権を取得していたが、ヴォルフガングとシュテファンの活動自体については問題視しておらず、FIFAワールドカップロシア大会の際のプログラムには編成の異なる2つの「ジンギスカン」が記載されていた[14][26]。
しかし、本家が『Moskau Moskau』をドイツで演奏することについて、ヴォルフガングらが阻止しようとしたことで状況が変化する[14][26]。ジーゲルはヴォルフガングらが使用するバンドのロゴや名称が自身の権利を侵害しているとして訴訟を起こし、これに対してヴォルフガングは長年にわたって同じメンバーで演奏されており、メンバー個人も作曲に関わってきたことから権利はメンバーそれぞれに帰属しジーゲル1人が有するものではないと主張したが、2021年7月にミュンヘン地方裁判所はジーゲル側に有利な判決を下してジーゲル側に権利を認めた[26]。
シュテファンとヴォルフガングは2020年には重大な意見の相違が生じていたとしており、ジーゲルとの裁判で敗訴すると関係を解消[27]。その後、シュテファンは別のジンギスカンのコピーバンドを結成して活動を続けており、ヴォルフガングはまた別の「ジンギスカン(Chinggis Khan)」名義のバンドで活動している[27]。
2023年以降[編集]
2022年3月にジンギスカンは再びドイツを拠点として活動することが公表された[28]。
ラルフ・ジーゲルとローラ・ジーゲルによる会社「Siegelring(ジーゲルリング)」による新しい「ジンキスカン」は2023年秋の活動再開が告知され、2023年5月には平均年齢25歳からなる新編成が公開された[21][29]。新たな編成は、
- クラウス・クプライト(プリンス・イゲイ・カン)
- アンジェリカ・エルラッヒャー(エルトゥヤ・カン)
- レン・ヴィラット・フェトノイ(ヤッサ・カン)
- マルコ・マティアス(バトウ・カン[要出典])
- セリーナ・コール(ズリ・カン[要出典])
- ミッシェル・ターナー(ミヒャエル・T・カン[要出典])
の6人であり、既存の3人に、ジーゲルによるミュージカルへの出演経験のある3人が加わった[29][30]。
メンバー[編集]
オリジナルメンバー[編集]
- スティーヴ・ベンダー / Steve Bender(1946年11月2日 - 2006年5月7日(59歳没)[31][32])
- 西ドイツマインツ出身[31][32]。本名は「カール=ハインツ・ベンダー(Karl-Heinz Bender)」[31]。生年を1942年とする情報もある[31]。
- 地元の小学校を卒業し、専門学校に通って彫刻家・大工・画家などを志したが教師との関係性から退学した後、音楽活動を開始して独特の声で1960年代のドイツのビートシーンの形成に寄与した[31][32]。私生活では1964年に結婚し、1974年には長女のメラニー・ベンダーが生まれた[31][32]。数々のバンドを渡り歩いた経験があり、ジンギスカン結成直前にはジーゲルのプロデュースを受けていた[3][4]。ある時、ジャケット撮影でスキンヘッドのかつらをふざけてかぶり、オフィスに飾られたポスターでその姿を見たジーゲルが気に入ってジンギスカン加入が決定した[3][4][31]。ジンギスカン在籍中は常にスキンヘッドを求められ1日に2回髪を剃っていたとも伝えられるが、最初にスキンヘッドの自分の姿を鏡で見たときは恐怖から4週間家に引きこもったというエピソードもある[4]。
- ジンギスカンを1981年に脱退[31]。脱退理由は公式には痛めていた椎間板が踊ることに耐えられなくなったとされたが、グループの将来性と金銭面などでジーゲルとの間に意見の相違があったとも噂されている[31]。その後はソロアーティストとして活動するがそれほど成功はせず、自身の制作会社を設立して音楽プロデューサーとして活動した[31][32]。再結成の直前には末期がんであることが発覚しており、再結成を成功させた後に2006年5月7日に死去した[13][31]。
- ルイス・ヘンドリック・ポトギター / Louis Hendrik Potgieter(1951年4月4日 - 1994年11月12日(43歳没)[32][33])
- 南アフリカプレトリア出身[33]のドイツ系ブール人[要出典]。「パトリック・ベイリー(Patrick Bailey)」の別名でも知られる。名前はドイツ語読みに近い「ルイ」と読まれることも多い。
- ヨハネスブルグでグラフィックアートを学んだあと、ソロダンサーとしてウルム劇場にやってきた[32]。1975年にミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場に移り、1978年にドラマ『デリック』の51話にディスコダンサー兼殺人被害者として出演[33]。ビリー・ミレーの仲介でダンサーとしてジンギスカンに加わるが、ルイスが歌わないことも最初から織り込み済みであった[4]。
- ジンギスカン解散後は短期間「ジンギスカンファミリー」として活動した後、南アフリカへと戻ってヨハネスブルグでホテルの支配人として働いた。1994年11月12日、ポートエリザベスにて後天性免疫不全症候群(エイズ)による合併症で死去[32][33]。
- ヴォルフガング・ハイヒェル / Wolfgang Heichel(1950年11月4日 - [32])
- 東ドイツ出身。マイセンの生まれだが[32]、ヴォルフガングが3歳の時に西ベルリン、16歳の時にメルズンゲンへと家族で移り住んだ。8歳から13歳までピアノのレッスンを受け、独学でギターも学んでおり、学生時代からバンドを組んでいた。高校を卒業するとカッセル芸術大学で芸術教育について学ぶが[32]、グループに所属するために中退してスイスへと移り美容師を志す。スイスで歯科助手をしていたヘンリエッテと出会い、1976年4月9日に結婚し[32]1977年にミュンヘンに移った。ミュンヘンでは音楽活動を続けながら歯科学を学ぶが、物理の単位を落としてしまい中退した[32]。1979年に友人のビリー・ラング経由でジーゲルと出会いジンギスカンに加入、追加の女性メンバーを求めていたジーゲルにヘンリエッテの加入を提案する[3]。
- ジンギスカン解散後はジーゲルがプロデュースする「That's Life」で活動するが、1986年のユーロビジョン・ソング・コンテスト予選で最下位となり解散。その後は作曲家、プロデューサーといった裏方に転身しピーター・プライスなどをプロデュースした。2005年の再結成後はしばらくジンギスカンのメンバーとして活動するが2014年に脱退、前述の通り一時はシュテファンとともに本家と別の「ジンギスカン」を名乗った。
- レスリー・マンドキ / Leslie Mandoki(1953年1月7日 - [32][34])
- ハンガリーのブダペスト出身[32][34]。ハンガリー名は「ラースロー・マーンドキ(László Mándoki)」。[要出典]
- リスト・フェレンツ音楽大学で学んでいたが、1975年に共産主義政権の学生運動弾圧から逃れるためにガーボル・チュポーらとともにカラヴァンケントンネルを徒歩で抜け、オーストリアを経由してドイツのミュンヘンへと渡る。ミュンヘンのスタジオミュージシャンとしてドラムを演奏していたが[32]、ジンギスカンに加入するまで目立った活動はしていなかった。当時はジーゲルのもとに曲を送っていた若い作曲家の1人に過ぎなかったが、友人のヨアキム・ノイバウアーに見せられた写真でレスリーの容姿を気に入り、ジーゲルは「歌も上手ならジンギスカンにぴったりだ」と語ったとされる[3]。
- 解散後は音楽プロデューサー兼ロックミュージシャンとして活動し、解散後に最も成功された人物とされる[12][9]。解散間もない1986年のジンギスカンファミリー結成時にはグループ活動の意欲を見せたが[8]、20年後の2005年再結成時不参加であり、この頃にはグループ活動に興味を失っていたともされる[9]。
- エディナ・ポップ / Edina Pop(1941年2月4日 - [32])
- ハンガリーのブダペスト出身(のちハンガリー系ドイツ人)。本名は「マリカ・ケーシュマールキ(Marika Késmárky)」。名前は「イダイナ」と読まれることもある。[要出典]
- ブダペストの高校を卒業してホテル・コンサート・テレビなどで演奏した後、1969年にドイツに渡ってプロの歌手として活動するようになった。1971年2月にギュンター・ストールと結婚するが、1977年1月に死別[32]。1972年に楽曲「Meine Liebe will ich dir geben」でユーロビジョン・ソング・コンテストに出場して国内予選で6位であった。こういった経歴から、ジンギスカンのメンバーの中では結成前時点で最も知られていた人物である[3]。
- ジンギスカン解散後はソロ活動を再開するが、以前のような成功を収めることはできなかった。
- ヘンリエッテ・パウリーネ・シュトローベル(ハイヒェル) / Henriette Pauline Strobel (Heichel)(1953年11月13日 - [32])
- オランダのアムステルダム出身[32]。ジンギスカン発足時はヴォルフガングと結婚していたためハイヒェル姓であったが、後に離婚したためシュトローベル姓へと戻って活動している。
- 歯科医の父を持ち、自身もアムステルフェーンの女学校を卒業後歯科助手として働いた[32]。その他、マヌカン、美容師、バレエ、フィギュアスケートの個人レッスンを受けていた[32]。1976年にヴォルフガンクと結婚し、1979年に夫婦そろってジンギスカンへのメンバーとなる[32]。
- ジンギスカン解散後、1986年にヴォルフガングと離婚[32]。友人とともにスペインのマヨルカ島でファッション関係の仕事を始めた。[要出典]
Dschinghis Khan Family[編集]
オリジナルメンバーのレスリー、ヘンリエッテ、ルイスに加えて以下の3人[7]。
- ユルゲン・グーンホルツ / Jürgen Gronholz
- クリスティン・ザーゲント=ブラント / Christin Sargent-Brandt
- マイク・トゥール / Mike Toole
2005年再結成時のメンバー[編集]
オリジナルメンバーのスティーヴ、エディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングに加えて以下の3人[7]。
- シュテファン・トラック / Stefan Track
- ダニエル・ケスリンク / Daniel Käsling
- エプル・カーヤ / Ebru Kaya
The Legacy Of Genghis Khan[編集]
2007年以降はオリジナルメンバーに加えて『The Legacy Of Genghis Khan(ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン)』または『The Legacy(ザ・レガシー)』と呼ばれるダンサーチームが一緒に活動した。2023年以後はオリジナルメンバー全員が一線を退いており、以下のメンバーが「ジンギスカン」として活動している。なお、本名ではなく役名で出演している。
- クラウス・クプライト / Claus Kupreit - 2007年から現在。プリンス・イゲイ・カン(Prince Igei Khan)役。
- アンジェリカ・エルラッヒャー / Angelika Erlacher - 2016年から現在。エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan)役。
- レン・ヴィラット・フェトノイ / Läm Virat Phetnoi - 2012年から現在。ヤッサ・カン(Yassa Khan)役。
- マルコ・マティアス / Marco Matias - 2023年から現在。バトウ・カン(Batou Khan)役[要出典]。
- セリーナ・コール / Selina Khol - 2023年から現在。ズリ・カン(Zuri Khan)役[要出典]。
- ミッシェル・ターナー / Michel Turner - 2023年から現在。ミヒャエル・T・カン(Michael T. Khan)役[要出典]。
役名 | 名前 | 期間 |
---|---|---|
オゴデイ・カン(Ögödei Khan) | ベンヤミン・ショーベル / Benjamin Schobel | 2007年から2011年まで。 |
ヨハネス・クプライト / Johannes Kupreit | 2011年から2020年9月12日に亡くなるまで[27][35]。 | |
エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan) | コリナ・グンツェル / Corinna Günzel | 2007年から2014年まで。 |
ヤッサ・カン(Yassa Khan) | シュテファン・ゾーター / Stefan Sauter | 2007年から2009年まで。 |
イェスガン・カン(Yesugan Khan) | アンジェリカ・ニンバッハ / Angelika Nimbach | 2007年から2008年まで。 |
オラ・カン(Ohla Khan) | エヴィ・ヴァイガンド / Evi Weigand | 2007年から2014年まで。 |
キャッシュ・カン(Cash Khan) | アッティラ・マリオ・ディアロ / Attila Mario Diallo | 2007年から2014年まで。 |
ディスコグラフィ[編集]
原語タイトル以外の邦題があるものついては、原語タイトルに【 】で付記する。
アルバム[編集]
スタジオアルバム[編集]
タイトル | 説明 | チャート最高順位 | ||
---|---|---|---|---|
GER | FIN | JPN | ||
Dschinghis Khan | 1979年8月発売
収録曲
|
8 | 28 | 53 |
ROM | 1980年9月発売
収録曲
|
5 | - | - |
Viva | 1980年発売 上記「ROM」からからボーナストラックを除いたもの |
- | - | - |
Wir sitzen alle im selben Boot 【めざせ世界制覇】 |
1981年10月発売
収録曲
|
52 | - | - |
Helden, Schurken & der Dudelmoser | 1982年発売 | - | - | - |
Corrida | 1983年発売 | - | - | - |
7 Leben | 2007年5月11日発売 | - | - | - |
コンピレーションアルバム[編集]
タイトル | 説明 | チャート最高順位 |
---|---|---|
JPN | ||
Greatest Hits | 1980年10月14日発売 | - |
Golden Prize | 1980年6月21日発売 | 31 |
Die grossen Erfolge | 1981年発売 | - |
Starportrait | 1985年発売 | - |
Golden Best | 1988年4月10日発売 | - |
Best of Best | 1994年6月25日発売 | - |
Huh Hah Dschinghis Khan – Ihre grössten Erfolge | 1993年4月26日発売 | - |
The History of Dschinghis Khan | 1999年発売 | - |
Non-Stop Best Hits | 2001年2月21日発売 | - |
Star Collection | 2002年1月31日発売 | - |
The Jubilee Album | 2004年9月27日発売 | - |
Best Of | 2005年12月16日発売 | - |
The Best | 2009年9月16日発売 | - |
Die grossen Hits | 2012年発売 | - |
Moskau – Das Neue Best Of Album | 2018年4月13日 | - |
シングル[編集]
タイトル | 翻訳版・限定 の表記 |
年 | チャート最高順位 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
GER | AUS | AUT | BEL | DEN | JPN | NL | NZ | SA | SWI | |||
Dschinghis Khan | 1979 | 1 | - | 8 | 20 | 1 | - | - | - | - | 3 | |
Genghis Khan | 英語版 | 18 | 86 | - | - | - | 12 | - | 33 | - | - | |
Moskau【めざせモスクワ】 | 3 | - | 16 | - | 7 | 35 | 38 | - | - | 11 | ||
Rocking Sun Of Dschinghis Khan | 英語版 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Moscow | 英語版 | - | 1 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Hadschi Halef Omar【ハッチ大作戦】 | 7 | - | - | - | - | 63 | - | - | - | - | ||
Samurai | 日本限定 | 1980 | - | - | - | - | - | 73 | - | - | - | - |
Rom【栄光のローマ】 | 12 | - | 19 | - | - | - | - | - | - | - | ||
Rome | 英語版 | - | - | - | - | - | - | - | - | 14 | - | |
Machu Picchu【インカ帝国】 | 日本限定 | - | - | - | - | - | 84 | - | - | - | - | |
Pistolero【哀愁のピストレーロ】 | 1981 | 15 | - | - | - | 10 | - | - | - | - | - | |
Pistolero | 英語版 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Loreley | 6 | - | - | - | - | - | - | - | - | 11 | ||
Loreley | 英語版 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Wir sitzen alle im selben Boot【世界はひとつ】 | 44 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
What Shall We Do with the Drunken Sailor【酔いどれ水兵】 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
Klabautermann【妖精クラバウターマン】 | 1982 | 37 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Kaboutertjes | - | - | - | 13 | - | - | 23 | - | - | - | ||
Der Dudelmoser【アルプスのドゥーデルモーザー】 | 46 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
Himalaja【前人未到の地ヒマラヤ】 | 1983 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Olé, Olé【闘牛士の死にオーレ!】 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
Corrida | 1984 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Mexico【めざせメキシコ】 | 1985 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
Give Me a Sign | オランダ限定[7] | 1986 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
Wir gehör'n zusammen (ジンギスカンファミリー名義) |
- | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
Can't Stop Now (ジンギスカンファミリー名義) |
- | - | - | - | - | - | - | - | - | - | ||
Dschinghis Khan Tartar Mix (ジンギスカン×Berryz工房名義) |
日本限定 | 2008 | - | - | - | - | - | 35 | - | - | - | - |
Moskau Moskau (Dschinghis Khan feat. Jay Khan名義) |
2018 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j “Dschinghis Khan: Deutscher Mongolen-Pop beim ESC” (英語). ユーロビジョン・ソング・コンテスト. 2004年7月8日閲覧。
- ^ “Talent in Germany 82: Bringing Home” (英語). Billboard. (1981年12月26日) 2024年7月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v “Wie alles begann...” (ドイツ語). STEPPENWIND - Offizielle Dschinghis Khan Fanseite. 2024年7月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “ディスコの定番曲、ジンギスカンが歌う「ジンギスカン」一度聴いたら忘れない!”. Re:minder (2022年4月10日). 2024年7月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Die Geschichte der legendären Gruppe Dschinghis Khan – Dschinghis Khan” (ドイツ語). ジンギスカン公式サイト. 2004年7月8日閲覧。
- ^ a b “『マイアヒ』の次は『もすかう』”. オールアバウト (2005年9月25日). 2024年7月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Die Kostüme 1979 bis heute” (ドイツ語). STEPPENWIND - Offizielle Dschinghis Khan Fanseite. 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b c d Dschinghis Khan: Zwei Leute gingen, drei neue kamen(steppenwind.jimdofree.comのDschinghis Khan in der Presseより)。2004年7月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u “1986 bis heute” (ドイツ語). STEPPENWIND - Offizielle Dschinghis Khan Fanseite. 2024年7月10日閲覧。
- ^ “D. K. Family – Can't Stop Now / Fang Mich Auf” (英語). 2024年7月10日閲覧。
- ^ “Happy Birthday, Edina Pop!”. 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b “Leslie Mandoki im Berliner Admiralspalast: Von Dschinghis Khan zum Bandleader der Rockstars”. 2024年7月10日閲覧。
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- ^ “Most már kiszállok, valamikor abba kell hagyni – 40 év után hozott sorsfordító döntést a Táncdalfesztivál egykori győztese”. Szrjeborni Bianka (2020年1月15日). 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b “Dschinghis Khan: Das Warten hat ein Ende: Weltweites Dschinghis Khan Comeback – MIT Ralph Siegel !!!” (英語). Smago!. (2023-06-28) 2024年7月8日閲覧。.
- ^ Impressum von dschinghis-khan.com (Memento vom 6. 8月 2020 im Internet Archive)
- ^ Impressum von dschinghis-khan.com (Memento vom 27. 9月 2020 im Internet Archive)
- ^ a b “Rocking Son-Tournee in Heimatstadt Aalen/Mallorca”. aaleninfo.de. 2024年7月10日閲覧。
- ^ “DSCHINGHIS KHAN MUSIC LIMITED – Company number 07208954”. 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b c “Genghis Khan decision highlights importance of industry peculiarities to unregistered company rights” (英語). Lexology (2021年10月7日). 2024年7月8日閲覧。
- ^ a b c “Start” (ドイツ語). STEPPENWIND - Offizielle Dschinghis Khan Fanseite. 2024年7月10日閲覧。
- ^ officialdschinghiskhanの投稿(pfbid0SFZU4dd4UiAuhhrK98fahRB58eKjXogrYAHjZQnkuigpy1WRhHjamupJuaq1inu9l) - Facebook
- ^ a b Maria Zsolnay (2023年5月9日). “Dschinghis Khan kommt wieder! Erfolgskomponist Ralph Siegel lässt die Band wieder auferstehen”. 2024年7月10日閲覧。
- ^ Kevin Drewes (2023年5月28日). “Ralph Siegel: Dschinghis Khan feiert Comeback und kündigt Tournee an”. 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k Jo Beyer, Daniel Logemann. "Steve Bender – ein Vollblut-Musiker tritt ab". steppenwind.com. 2012年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “die-khane” (ドイツ語). STEPPENWIND - Offizielle Dschinghis Khan Fanseite. 2024年7月10日閲覧。
- ^ a b c d “Louis Potgieter” (英語). IMDb. 2024年7月11日閲覧。
- ^ a b “Leslie Mandoki” (英語). IMDb. 2024年7月11日閲覧。
- ^ “Traueranzeigen von Johannes Kupreit | trauer.merkur.de” (ドイツ語). trauer.merkur.de. 2021年3月14日閲覧。
外部リンク[編集]
- ウィキメディア・コモンズには、ジンギスカン (グループ)に関するカテゴリがあります。
- 公式ウェブサイト