ノート:高天原

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日本各地の高天原について[編集]

編集合戦を避ける為に記述しておきます。 壱岐及びその周辺の島々を天国領域(高天原)とするのは九州王朝説の一説であり、古田武彦氏の著作邪馬台国はなかった等に度々登場する物であり、独自研究や、自説の類ではありません。このレベルで記述不可能とするのであれば、少なくとも地名比定のみであり、高天原とは本来別の地域である高千穂峰(古事記や日本書紀を読めば分かる事です。)とされてる高千穂と、地名のみの蒜山高原(ひるぜんこうげん)、新井白石の書物のみが出展である茨城県多賀郡は削除対象であると考えます。--究極の幻想 2009年11月16日 (月) 10:03 (UTC)[返信]

記事より転記[編集]

以前私が無出典および独自研究および一説の誇張として除去した編集が「大量除去」として取り消されましたので、該当部分の大部分をここに転記した上で再除去したいとおもいます。復帰される際は出典をお願いします。

通常は、「たかまがはら」という格助詞「が」を用いた読み方が一般的であるが、この読み方が広まったのは歴史的には新しい。これは、「たかまのはら」の連体格の助詞「の」が、同じく連体格の助詞「が」へと転訛したものである。「たかまがはら」は、中世後半ころから近世に使用例がみられ、江戸時代の庶民文化、すなわち読本や洒落本など戯作文学の中で広まり、やがて一般化されていったものと考えられる。上代文学では、「たかまのはら」もしくは「たかあまのはら」が正当な訓とされている
いっぽうで、神話に書かれていることが事実であるという立場から解釈を試みる人々が古くから存在しており、九州大和北陸富士山他(後述)、実在の場所であったとの説も多数となえられた。
比較的新しい『霊界物語』では至美天球とも書かれ、輝き広がる宇宙の清い中にも清い光の霊界と描かれた。 縷々難解な内容で高天原の解説や物語の約束事も変わっており岩戸の段なども新たに長く大きく記されている。
「高天原は神の住まう場所であるから、天上や天より高い宇宙に決まっており、それ以外の場所を考えるのは不遜である」とする説。本居宣長の説が代表的なもので、戦前は皇国史観と結びついてこの考え方が主流であった。
地上説にはさらに国内説と海外説がある。国内説の中には、邪馬台国と高天原を関連付けて考える説もある。海外説の代表的なものは中華の国雲南説である。新井白石が常陸国説を唱えるまで、京都朝廷では高天原は大和国葛城だとされていた。 いわゆる、高天原はヤマト発祥の地として考えることが地上説である。神事においても、降神の儀・昇神の儀があるように、神々は常に我々を見守っておられる。高天原について、天上界に存在することはもちろんだが、歴史上、八百万の神々が地上界の何処かに降りられて仮住まいされていた時期はもちろんある、とする説で、いわゆる高天原を「ヤマト発祥の地」と考える説である。
神話作られたものであるから、そこに出てくる高天原について「どこにあったか?」などと考えること自体が無意味であるとする説。山片蟠桃の説が代表的なもので、『古事記』における神代のことは後世の作為であるとする。戦後主流となっている津田左右吉の史観はこの考え方に基づく。現在でも多くの学者は、高天原神話は支配階級のことを「天上界に由来するが故に尊い」とする信仰を語ったものであるという説に与しており、思想的には異なるものの先の天上説と実質の意味合い的には近い。
; 滋賀県米原市伊吹山山麓。
葛城金剛山高天台 - 奈良県御所市高天
奈良県南部の御所市高天。金剛山の麓に広がる台地上に位置する。古くは葛城といわれた地域で、そこにそびえ立つ金剛山は、古くは高天原山といわれていた。付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地で、ここに所在する高天彦神社延喜式では最高の社格とされた名神(みょうじん)大社で、祭神は葛城氏の祖神高皇産霊(たかみむすび)神。社殿後方の白雲峯(694m)を御神体とする。参道の両側には杉の古木が立ち並び、神さびた雰囲気を漂わせている。古典作品では、『蜻蛉日記』にて『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは(203-05下)』という和歌があり、さらにこれに続く和歌として『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける(203-07下)』とあることから、天岩戸が葛城山にあったとする理解は遅くとも平安時代まで遡ることが解る。鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、また能の葛城代主などの舞台もこの地とされることから、中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。最終的には江戸時代初頭まで、新井白石が常陸国説を唱えるまでは、この地が高天原史跡だと考えられていたらしい。なお、高天原の石碑はこの地区にある寺の駐車場のところにある。[1][2]
高原町(たかはるちょう) - 宮崎県高原町
高原町は、後ろに高千穂峰がそびえている事もあって、以前から天孫降臨の地として認識されていたようである。江戸時代末期に薩摩藩により編纂された『三国名勝図會』では、土俗傳へ云、當邑を高原と號するは高天原の略称なりと、凡日向国内此辺は、神代の 皇都に係り、今に都島都島は今の都城、高城などといへる地名殘るも此が為にて、此地、都島と接し、(後略)、とある。
そしてその伝承に沿うかのように山頂には「天逆鉾」が立てられている。立てられたのは江戸時代辺りと推定されるが、詳細は不明である。又、高原町は、神武天皇御降誕の地としても名高い場所である。『日本書紀』にある神武天皇の幼名「狭野尊」が当町の狭野地区を指しているというのが主な根拠であるが、江戸時代半ばから末期にかけての神社関連の古文書の中に複数の地形を挙げて神武天皇の『聖蹟』としている。ただ、具体的な説明はなく、現在説明されている神武天皇関連の説明の大筋は『三国名勝図會』に依っている。伝承では、いわゆる東征までこの地で暮らしたとされている。
高千穂(たかちほ) - 宮崎県高千穂町
宮崎県北部。天岩戸天香具山、高天原、四皇子峰等がある。高千穂神社では、天鈿女命が舞ったことから始まったとされる高千穂の夜神楽が伝承されている。
阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町
高天原神話の発祥の神宮であると近年になって自称している「日の宮・幣立神宮」がある。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。
蒜山(ひるぜん) - 岡山県真庭市
茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。
;長崎県壱岐市
天ヶ原、高野原等の地名が残り、九州王朝説では天国領域とされている。
氷ノ山(ひょうのせん)西麓 - 鳥取県八頭郡若桜町舂米(つくよね)
鳥取県若桜町舂米のわかさ氷ノ山スキー場には「高天原」の地名・伝承が残っている。
霊石山伊勢ヶ平 - 鳥取県八頭郡八頭町
天照大神が八上[3]の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。
和歌山県の高野山の地名である高野(こうや)
以前は「たかの」と呼ばれていた。また近くに天野神社(あまのじんじゃ)がある。この高野と天野で高天原だったと地元の人々は話している。
* 御倉板挙之神 - 日本の神話に登場する高天原の統治権を象徴する首飾り。
  • ヒュペルボレイオス - 千年王国 - エデンの園 - 高天原は「円環」の頂点=12時=0時=始まりと終わりの場所に位置するので「高い天の原」である。世界の始まりから終わりまでを表す「円環」は、時間のみならず、方角や高低や上下左右や場所(0時が北・高・上・天)をも表す。

--Aitok I会話2018年7月13日 (金) 12:46 (UTC)[返信]

  1. ^ 高天原の史跡
  2. ^ 御所市高天 葛城高天原
  3. ^ 八頭郡は、かつての八上郡八東郡智頭郡が合併して出来た。