ディレクシブ

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株式会社ディクレシブ
種類 株式会社
市場情報 (非上場)
本店所在地 東京都港区元麻布二丁目3番
設立 2004年7月7日
業種 サービス業
事業内容 芸能プロダクションの経営 労働者派遣業
代表者 芳賀美里
資本金 3000万円
発行済株式総数 600株
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ディレクシブ(Direxiv)は、かつて存在した日本レーシングチーム

歴史[編集]

急激な活動拡大[編集]

2004年7月7日設立。平成電電の大株主でBNPパリバプライベートバンクの顧問でもあった投資家の秋山新率いる「アキヤマホールディングス」傘下で、モンテカルロに設立登記された投資会社「ディレクシブホールディングス」の出資により、東京を拠点に発足した。

モータースポーツへの参入当初より、下位カテゴリーでの活動実績無く国内最高峰カテゴリーであるフォーミュラ・ニッポンSUPER GTなどのトップカテゴリーに参戦した他、ヨーロッパにおいてもF3選手権や、F1の直下カテゴリーにあたるGP2に既存チームのメインスポンサーとなり参戦(2006年にはDPRチームが「DPR DIREXIV」として参戦、ディレクシブ撤退後の2007年に元の"DPR"にチーム名が戻された)するなど、バブル景気時のレイトンハウスのレース活動を髣髴とさせる急激な活動拡大を行った。

実妹の五十嵐結花グラビアユニット「プニプニ」を組んでいた、元レースクイーンの芳賀美里(旧芸名:日野まるあ)を「社長」に擁し、ブログなどで芳賀の活動を前面に押し出した。レース活動の他、芸能プロダクション部門を設けて、映画の製作(実現せず)に乗り出すことを公表した他、モデル業やレースクイーンの派遣等にも進出した。

モータースポーツへの参戦経験やチーム運営経験どころか、パドックで挨拶をしたマーク・ウェバー(その時点でF1参戦後4年が経過していた)の存在を知らなかった[1]など、全く知識すらない芳賀にレーシングプロジェクトを「指揮」させ、チャーターしたプライベートジェット機で移動させるなど不可解な点が多い上、秋山と芳賀の関係、さらに経営母体の資金源を含む実態が明確でなかったことから、多くのモータースポーツ関係者から先行きが懸念された。

F1参入計画[編集]

ディレクシブは、モータースポーツ世界最高峰カテゴリであるF1へ進出する計画を持っていた。元F1ドライバーの鈴木亜久里に対し資金援助を約束し、これを受けて鈴木は2005年2月にホンダに対してF1に参戦中のB・A・Rチームの買収・共同運営を提案したが、ディレクシブの経営実態を怪しんだホンダはこの話を拒否(鈴木はこの後にディレクシブと袂を別ち、自らF1参戦のためのスーパーアグリF1チームを立ち上げた)。

元F1ドライバーのジャン・アレジアレクサンダー・ヴルツ[2][3]にも接近。アレジをチームの「シニアエグゼクティブアドバイザー」として招聘、鈴鹿サーキットファン感謝デーにて自チームのフォーミュラ・ニッポンマシンに搭乗させデモランを行うなど目立つパフォーマンスを行った[4]。F1のトップチームであるマクラーレンに対するスポンサーや業務・技術提携を行う[5]と発表したが、実際にどのような技術が提供されたかは発表されないままであった。またマクラーレンからシャーシを、メルセデスからエンジンの供給を受け、マクラーレンのセカンドチームとしてF1に参戦するのではないかと噂され[6]、F1参戦が実現すればドライバーはペドロ・デ・ラ・ロサルイス・ハミルトンゲイリー・パフェットが候補であり、アレジがディレクター職に就任する[7][8]とされた。

2006年3月、GP2でメインスポンサーとなり提携関係にあったイギリスのデイビッド・プライス・レーシング (DPR) と共に2008年からのF1への新規エントリー申請を行った。しかし、同年4月の国際自動車連盟 (FIA) 発表にてプロドライブチームが新規参戦チームとして選出され、ディレクシブは落選した。この落選はディレクシブのレース活動の転機となった。

突然の活動停止[編集]

2006年春のF1構想頓挫以後、同年8月1日にそれまで未発表であった親会社が「アキヤマホールディングス」であることを公表。同社が事業方針を転換したことを理由に「SUPER GT」以外の全てのレース活動からの即時撤退を表明するなどレース活動が収束に向かう。

直後の8月9日には「アキヤマホールディングス」からの資金供給が途絶えたことを理由にモータースポーツからの完全撤退が発表され、8月20日に行われたSUPER GT第6戦(鈴鹿1000km)を最後にシーズン途中でのチーム撤退となった。

参戦していたSUPER GT(GT300クラス)については、撤退時点で谷口信輝/密山祥吾組がランキングトップであったこと、参加車両減を憂いた周囲の計らいにより実車のメンテナンスを担当していたR&D SPORTが丸ごとチーム運営を引き継ぎ、鈴木利男を新監督に迎え、2006年シーズンの残りレースを戦った(ランキングは3位で終了)。またフォーミュラ・ニッポンは、元株式会社ラレス代表取締役張勤尚が代表取締役を勤めていた株式会社EMSマネージメント(2006年5月19日設立)がチーム運営を引き継ぐ形で最終戦まで参戦した(体制変更によりドライバーは密山祥吾から平中克幸に交代された)。

ディレクシブの公式ウェブサイトは同年8月9日の撤退発表を最後に更新を停止し、芳賀のブログは過去分を含む全記事が削除された。翌2007年シーズンに向けたチームの動向や、芳賀の進退などについての新たな発表のないまま、2007年1月に公式ウェブサイトも閉鎖し、チームは消滅した。2007年4月30日株主総会で解散が議決された。

その後[編集]

なお秋山および「アキヤマホールディングス」はその後全くモータースポーツに関わる事業に姿を見せないままであったが、芳賀は翌2007年のSUPER GT第3戦より"楽天BOMEX 320R"およびスーパー耐久に参戦する"RSオガワ"の「監督」としてレース界に復帰。2008年はSUPER GTに参戦する"MOLA レオパレス Z"の「監督」となった。同チームは2006年GT300クラスのドライバーズタイトルとチームタイトルを獲得し、芳賀個人としてはシーズン途中までランキングトップでありながらチーム消滅となった2年前のリベンジを果たす形となった。

しかし、モータースポーツに於いて何の経験も実績も無い芳賀がレーシングチームの「監督」となった背景は、芳賀と秋山や「アキヤマホールディングス」との関係同様不明のままであった。その後芳賀は同チームの「監督」を突如辞めている。

以後は秋山・芳賀ともモータースポーツ界との関係は一切無く、「ディレクシブ」の実態やその背景に不可解な部分が多く残されたままとなった。

沿革[編集]

  • 2004年 7月 7日 株式会社ディレクシブ成立 東京都港区元麻布二丁目 代表取締役芳賀美里 取締役宮川泰夫 取締役五十嵐麗子 監査役笹瀬清人
  • 2004年 8月21日 笹瀬清人監査役・宮川泰夫取締役退任、宮島正裕監査役就任
  • 2006年 5月 1日 五十嵐麗子取締役・成田哲取締役・宮島正裕監査役辞任
  • 2007年 4月30日 株主総会解散議決
  • 2018年 1月11日 登記官により登記記録閉鎖

関連項目[編集]

同チームに所属していたドライバー[編集]

それ以外の契約ドライバー[編集]

レースクイーン[編集]

参照[編集]

  1. ^ F1ドライバー! 芳賀美里のレース日記 2005年6月21日
  2. ^ Wurz does Direxiv deal Crash.net 2006.1.27
  3. ^ Wurz linked to 2008 race ride Crash.net 2006.3.15
  4. ^ アレジがFポンマシンをデモラン トーチュウF1express 2006.3.4
  5. ^ McLaren join forces with Direxiv AUTO SPORT 2006.2.15
  6. ^ McLaren considering running 'B' Team AUTOSPORT 2006.3.9
  7. ^ Alesi involved in McLaren B team GP Update.net 2005.10.17
  8. ^ Alesi lands Direxiv role Crash.net 2006.2.21
  9. ^ GP2、クリビオピッチオーネ 芳賀美里のレース日記 2005年6月21日

外部リンク[編集]