シンガポール華僑粛清事件

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シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。[1]

背景[編集]

1942年2月15日、イギリス軍が日本軍の第25軍(軍司令官・山下奉文中将)に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した[2]

同月21日に、山下軍司令官は、「抗日分子」や旧政府関係者の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊(司令官・河村参郎少将)、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団(師団長・西村琢磨中将)、マラヤ半島ジョホール州を担当する第18師団(師団長・牟田口廉也中将)およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団(師団長・松井太久郎中将)に粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった[3]。命令の発信元、つまり日本軍の虐殺の責任は、シンガポール方面軍である第25軍の司令官の山下奉文とその作戦参謀だった辻政信にあるとされる。第25軍の幹部会議では華僑虐殺命令が討議された記録や証言はいっさいないが、多くの証拠や旧軍の関係者の証言から、辻の独断による決定を軍司令官の山下が黙認ないし追認したとされる[4]

日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、華僑による抗日運動が盛んになっており、特にシンガポールでは星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると見なしていた[5]。山下軍司令官は、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、治安を乱し軍の作戦を妨げるおそれがある「抗日分子」を殲滅するために粛清を命令したとみられている[6]

事件[編集]

シンガポールの占領後、戦闘部隊は不祥事件の発生を警戒してシンガポール郊外に留められ、1942年2月16日に、市内の治安維持やイギリス軍の武装解除にあたるため、第2野戦憲兵隊(隊長・大石正幸中佐)がシンガポール市内に入った。同月18日、河村参郎少将が昭南警備隊の司令官に任命された。同警備隊には、第2野戦憲兵隊に加えて、第5師団から歩兵第11連隊第3大隊(市川正少佐)と第41連隊第1大隊(宮本菊松少佐)が配属された。また軍参謀・林忠彦少佐が警備隊付とされた。[7]

山下軍司令官は、河村少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、シンガポールの治安を乱し、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長・鈴木宗作中将、軍参謀・辻政信中佐から指示があり、掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので、作戦を同月23日までに終わらせること、選別対象は元義勇軍兵士、共産主義者、略奪者、武器を所持・隠匿している者および抗日分子となるおそれのある者とすること、掃討の方法として、中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行してアジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑することなどが伝えられた。また辻参謀が作戦の監督役とされた。[8]

河村少将は、処刑すべき対象の選別が難しいと鈴木参謀長に相談し、先に入手していた抗日組織の構成員名簿[9]をもとに選別を行うことにした。その後河村少将は第2野戦憲兵隊の大石隊長に指示を伝え、大石隊長が林忠彦参謀と相談して「シンガポール在住の18-50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」とする警備隊命令を作成した。また憲兵は選別を担当することとし、処刑場所の選定や処刑の実行は近衛師団の歩兵を憲兵の補助に充てた「補助憲兵」が担当することとした。[10]

2月19日に山下軍司令官の名で警備隊命令が布告された[11]

2月21日から23日にかけて、憲兵隊はシンガポールを5つの地区に分けて検問を行った。集合場所に集まってきた華僑を尋問し、選別された華僑をトラックに載せて海辺などに連行し、機銃掃射により殺害した。[12]

「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と激を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出していた[13]。このため、多くの無実のシンガポール華僑が殺害された[14]

23日までに処刑された人数は河村少将の法廷での証言では4-5千人、日記では約5千人とされている。同日時点では重要人物は引き続き留置取調べ中で処刑未了となっていたが、24日に開催された作戦会議で、掃討作戦はいったん終了したと報告された。[15]

同月2月28日には近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、警備隊も抗日分子の逮捕に協力した(第2次粛清)。このとき殺害された人数は「非常に少ない人数」で、約300人だったとされている。[16]

その後第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、このときも約300人が殺害されたとされる[17]

虐殺の事実を具体的に記載した著名なシンガポール人も存在する。戦後に首相となったリー・クアンユーは、自らの回顧録で虐殺の悍ましい事実を具体的に述べている。そして、彼自身も、当時、日本軍のトラックに乗せられかけたとき機転を利かせて逃げたため、危うく虐殺を逃れたことを伝えている[18] [19]

戦犯裁判[編集]

起訴[編集]

1947年3月10日、イギリス軍シンガポール裁判で、陸軍の、近衛師団長・西村琢磨中将、昭南警備隊長・河村参郎中将と、第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐ら5人の憲兵隊の将校が、一般住民の生命と安全に責任ある立場にありながら、シンガポールの中国系住民多数の殺害に関与し、戦争法規と慣習に違反したとして起訴された[20]

公判[編集]

1947年3月10日からシンガポールのビクトリア・メモリアルホールで開始された裁判では、主として、上官命令が戦争犯罪行為の弁護理由になるか否か、粛清・虐殺が「軍事的必要が緊急かつ不可避に要求するもの」であったかが議論された[21]

検察官側は、事実関係として、

  • 2月18日 ポンゴール・ロード末端近くの海岸にて 約300名
  • 3月1日頃 チャンギー・ロード10マイル里標近くにて200名から300名
  • 2月23日頃 東海岸ロードの7.5マイル(約12キロ)地点にて約120名、タナメラ地域チャンギー海岸にて500名から600名
  • 2月16日以降 タンジョン・ペガーにて約150名
  • 2月21日以降 フォート・カニング近くのチャンギー海岸にて200名から400名
  • 2月23日 アンバー・ロード近くの海岸にて約500名

の華人が殺害されたと主張した[22]

弁護側は、多数の殺害の事実関係そのものは争わなかった。一部の抗日華僑が民間人に変装してゲリラ活動を行おうとしたことは証拠があり、粛清は正当な戦闘行為の一環だったこと、各地区では上層部の命令に従って指示された対象を射殺しており、軍隊内での命令は絶対で逆らうことはできなかったことを主張した。また上層部を満足させるため、殺害した人数を水増しして報告しており、供述した人数が起訴状では民間人の証言によって更に水増しされていると主張した被告人もいた。[23]

これに対して検察側は、軍事上の必要性は戦争法規からの逸脱の免責事由にはならないと反論した[24]

判決[編集]

1947年4月2日、河村警備隊長と大石憲兵隊長の2人に絞首刑、他の5人に終身刑が宣告された[25]。河村・大石はむしろ虐殺に反対したが、命令の当事者の辻政信が戦犯逃れの逃亡中のために、責任をとらされて処刑されたとされる[26]

弁護側は、被告人全員の死刑を想定しており、判決は予想外のものだった。全員死刑とならなかった要因として、弁護人の1人は、弁護側のアドバイザーとなったベイト大尉から「グッド・フライデー前に酌量減刑の嘆願をすれば宗教的に好影響がある」との助言を受け入れて実行した結果、好影響があったとしている。このほかにもベイト大尉は、英軍がイギリス攻略の際に類似のゲリラ殲滅作戦を行った例を挙げたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の被害状況を訴えて判決を有利に導いたとされる。[27]

他方で中国系住民にとっては不満の多い判決となり、中国系の新聞は裁判の量刑が不当であると非難し、再審を求める論評が相次いだ[28]

しかし確認官は「終身刑は十分に重い刑罰である」として確認結果を判決どおりとした[29]。同年5月29日、確認結果が発表され、同年6月26日にチャンギー刑務所で2人の死刑が執行された[30]

裁判余録[編集]

第25軍の山下奉文司令官は、アメリカ軍のマニラ裁判で死刑が確定し、1946年2月に処刑されていたため、起訴されなかった[31]

華僑粛清を計画・主導したとみられている軍参謀の辻政信中佐は、終戦時にバンコクで僧に変装して潜行し、インドシナを経て、当時共産党と対立していた中国国民党の庇護を受けて中国に渡り、GHQの参謀第2部(G2)の庇護下にあった元大本営参謀服部卓四郎と連絡を取って1948年5月に日本に帰国、数人の元高級将校に匿われて戦犯追及を逃れていた。英軍は辻の帰国直後から辻の捜査を再開したが逮捕には至らず、1949年9月30日に戦犯裁判終了をGHQに通告した。GHQはそれを受けて辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をG2のエージェントとして利用するようになった。結局辻が戦犯として逮捕・起訴されることはなかった。[32]

辻参謀とともに粛清を主導したとみられている軍参謀の朝枝参謀は、戦後シベリアに抑留されていたため、戦犯裁判を免れた[33]

軍参謀・林忠彦少佐は1944年に飛行機事故で死亡していたため起訴されなかった[34]

事件に関与した第2野戦憲兵隊の憲兵将校のうち、合志中尉は別件で起訴され死刑を宣告されていたため、本件では起訴されず、河村・大石と同日に処刑された[35]。また水野少佐はシンガポールへの送致が遅れたためか、約1年後の1948年3月に起訴され、担当地域での177人の殺害容疑のうち約120人の殺害を認め、終身刑を宣告された。この裁判がシンガポールにおける最後の裁判となった[36]

被害者数[編集]

シンガポール粛清事件による犠牲者の総数は、裁判の起訴状に記載がなく、公判の中でも明らかにされなかった。確認文書の中で確認官は「数千人」と記載している。[37]

戦後東京で陸軍大臣の下につくられた俘虜関係調査中央委員会第4班(責任者・杉田一次元第25軍参謀)の報告書では「3月末までに厳重処断を受けたるもの約5千名なり」とされているが、これは河村少将の日記に拠るものとみられている。シンガポール裁判に提出された証拠書類の中で、同盟通信の記者で第25軍のマレー作戦に従軍していた菱刈隆文は、1942年2月16日にシンガポール入りしてから2,3日後に、杉田参謀が、第25軍参謀作戦部(辻中佐、林少佐)の計画で抗日分子の容疑で5万人の中国人が殺されることになっていると話し、後に5万人を殺害することは不可能だと分かったが約半数は処刑したと話したこと、その約1ヵ月後に林参謀からも5万人を殺害する計画だったが約半数を殺害したときに作戦停止命令が出されたとの話を聞いたことを陳述している[38]

証拠資料[編集]

事件の裁判に関する資料のうち、起訴状や宣誓供述書(日本語訳)は、弁護側の弁護士が日本に持ち帰った記録が刊行された中に含まれているが、裁判の速記録や証拠書類などはイギリス国立公文書館にしか現存しない。また河村少将の日記はその「抜粋」のみが東京裁判に提出され、現物の存在は不明となっていたが、1941年10月6日から1943年4月10日までの日記がイギリス国立公文書館に保管されていた。[39]

東京裁判には内容が少し異なる2種類の河村日記からの「抜粋」が証拠として提出されているが、日記原本と照合すると両者とも内容が原本と大きく異なっている。これは戦後、戦犯問題に対処するために日本陸軍が設置した俘虜関係調査中央委員会が「抜粋」を作成する際に被告人の弁護に有利になるよう、意図的に内容を改竄したものとみられている。[40]

戦後賠償[編集]

1966年10月25日、日本政府はシンガポールとの間で、2,500万シンガポール・ドル相当の日本の生産物と役務を無償で供与する、という内容の戦後賠償協定を締結している[41]

脚注[編集]

  1. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-206頁、林(1998) 210-250頁、林(2005) 163頁、林(2007) 要ページ番号、井上ほか(2010) 144-151,182-190頁。
  2. ^ 林(1998) 212頁。
  3. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 201頁、林(1998) 212,228,250頁。
  4. ^ 『参謀辻政信・伝奇』田々宮英太郎 芙蓉書房出版 1986年
  5. ^ 林(2007) 要ページ番号
  6. ^ 岩川(1995) 202頁、林(1998) 214頁。
  7. ^ 林(1998) 211-213頁。
  8. ^ 岩川(1995) 202-203頁、林(1998) 214-217頁。
  9. ^ 名簿の性質については林(1998) 219-220頁を参照。
  10. ^ 林(1998) 217-218頁。
  11. ^ 岩川(1995) 199-200頁、林(1998) 213頁。
  12. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-200頁、林(1998) 211-213,218-221頁。戦後にシンガポールの首相となったリー・クアンユーは、回顧録の中で、自身も当時、日本軍のトラックに乗せられかけたときに、機転を利かせて逃げたため、危うく虐殺を逃れたと述べている(リー(2000) 要ページ番号、リー(1999) 要ページ番号)。
  13. ^ 林(1998) 218-219頁、井上ほか(2010) 144-146,148-149,182-186頁、渡辺(2013) 要ページ番号
  14. ^ 篠崎(1976) 要ページ番号、リー(2000) 要ページ番号
  15. ^ 林(1998) 220-221頁。
  16. ^ 林(1998) 221頁、井上ほか(2010) 146頁。
  17. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、林(1998) 213頁、井上ほか(2010) 146-148頁。
  18. ^ 『リー・クアンユー回顧録(上)』日本経済新聞社2000年
  19. ^ 『私の履歴書』日本経済新聞社 1999年1月
  20. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 200-201頁、林(1998) 211-213頁。
  21. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁。
  22. ^ 岩川(1995) 202-203頁。
  23. ^ 岩川(1995) 203-204頁、林(1998) 223頁。
  24. ^ 岩川(1995) 204頁。
  25. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 204頁、林(1998) 212頁。
  26. ^ 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版1977年 70頁。
  27. ^ 岩川(1995) 204頁
  28. ^ 岩川(1995) 204頁
  29. ^ 林(1998) 223頁。
  30. ^ 林(1998) 212頁。
  31. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、林(1998) 225頁。1945年10月にシンガポールからマニラに派遣された英軍ワイルド大佐が行った尋問に対し、山下はシンガポールの華僑粛清は憲兵隊に責任があると回答していた。しかし、山下は作戦当時の第25軍の最高責任者であり、起訴されれば主犯格として有罪になっていたものとみられている(林(1998) 225頁)。
  32. ^ 林(1998) 225-226頁
  33. ^ 井上ほか(2010) 150頁。
  34. ^ 林(1998) 225頁。
  35. ^ 林(1998) 211頁。
  36. ^ 林(1998) 211,223-224頁。
  37. ^ 林(1998) 222頁。
  38. ^ 林(1998) 222頁。
  39. ^ 林(1998) 210頁。
  40. ^ 林(1998) 224頁、林(2005) 163頁。
  41. ^ 岩川(1995) 200頁。

参考文献[編集]

  • 渡辺(2013): 渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社、2013年(祥伝社新書)。
  • 井上ほか(2010): 半藤一利秦郁彦保坂正康井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年。 :ISBN 9784532167523
  • 林(2007): 林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、2007年。
  • 林(2005): 林博史『BC級戦犯裁判』岩波書店、2005年(岩波新書)。 :ISBN 4-00-430952-2
  • リー(2000): リー・クアンユー『リー・クアンユー回顧録(上)』日本経済新聞社、2000年。
  • リー(1999): リー・クアンユー『私の履歴書』日本経済新聞社、1999年1月。
  • 林(1998): 林博史『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年。
  • 岩川(1995): 岩川隆『孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判』講談社、1995年。
  • 東京裁判ハンドブック(1989): 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年。
  • 田々宮(1986): 田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』芙蓉書房、1986年。
  • 篠崎(1976): 篠崎護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。

関連図書[編集]

関連項目[編集]