キュオスティ・カッリオ
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| キュオスティ・カッリオ Kyösti Kallio | |
|---|---|
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| 生年月日 | 1873年4月10日 |
| 出生地 |
オウル州 ユリヴィエスカ |
| 没年月日 | 1940年12月19日(67歳没) |
| 死没地 |
ウーシマー州 ヘルシンキ |
| 前職 | 農場経営者、銀行員 |
| 所属政党 | 農民同盟 (現 : フィンランド中央党) |
| 配偶者 | カイサ・ニヴァラ |
| サイン |
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| 内閣 | 第1次キュオスティ・カッリオ内閣 |
| 在任期間 | 1922年11月14日 - 1924年1月18日 |
| 大統領 | カールロ・ユホ・ストールベリ |
| 内閣 | 第2次キュオスティ・カッリオ内閣 |
| 在任期間 | 1925年12月31日 - 1926年12月13日 |
| 大統領 | ラウリ・クリスティアン・レランデル |
| 内閣 | 第3次キュオスティ・カッリオ内閣 |
| 在任期間 | 1929年8月16日 - 1930年7月4日 |
| 大統領 | ラウリ・クリスティアン・レランデル |
| 内閣 | 第4次キュオスティ・カッリオ内閣 |
| 在任期間 | 1936年10月7日 - 1937年2月17日 |
| 大統領 | ペール・スヴィンフヴュー |
| 内閣 |
第3次アイモ・カヤンデル内閣 第1次リスト・リュティ内閣 第2次リスト・リュティ内閣 |
| 在任期間 | 1937年3月1日 - 1940年12月19日 |
キュオスティ・カッリオ(フィンランド語: Kyösti Kallio、本名グスタフ・カッリオカンガス (Gustaf Kalliokangas) 1873年4月10日 – 1940年12月19日 )は、フィンランドの政治家。フィンランド独立宣言書に名を連ねた建国初期の主要な政治家のひとりであり、国会議長、首相、大統領などの職を歴任した。2025年時点で、在任中に死去した唯一のフィンランド大統領でもある。
生涯
[編集]フィンランド中西部のユリヴィエスカにて出生した。父は農場主であり、また地元では著名な政治家であった。1904年から1906年、フィンランド議会において中小農民を代表する代議士として働いた。1906年には新党農民同盟に加わり、著名な指導者の一人と目されるようになった。
1917年の2月革命でロシア帝国皇帝ニコライ2世が退位した後、農民同盟の代表としてロシア臨時政府と交渉、議会を招集し、独立宣言を起草し12月6日に採択される。フィンランド共和国成立後は農業大臣や国会議長を務め、農地開拓政策で功績を上げた。1922年に首相に就任するとフィンランド共産党を弾圧、この反動でファシズムを掲げる極右過激派・ラプア運動が台頭しカッリオに指導者になるよう求めるが彼は拒否し、スヴィンヒュー大統領と共に弾圧する。
1937年に大統領に選出。1939年、ソ連からの領土割譲案を一蹴し、冬戦争が勃発する。予算不足などを理由に国防委員会議長の辞任を表明していたマンネルヘイムを説得してフィンランド軍最高司令官に任命し戦争指揮を一任する。モスクワ講和条約署名の前後から健康状態が悪化、1940年12月19日夜にヘルシンキ中央駅で心臓発作を起こし病死した。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ラウリ・クリスティアン・レランデル |
1920年 |
次代 ヴァイノ・ヴオリヨキ |
| 先代 ヴァイノ・ヴオリヨキ |
1922年 |
次代 ヴァイノ・ヴオリヨキ |
| 先代 アイモ・カヤンデル |
第9代 : 1922年 - 1924年 |
次代 アイモ・カヤンデル |
| 先代 パーヴォ・ヴィルックネン |
1924年 - 1925年 |
次代 ヴァイノ・ヴオリヨキ |
| 先代 アンッティ・トゥレンヘイモ |
第13代:1925年 - 1926年 |
次代 ヴァイノ・タンネル |
| 先代 パーヴォ・ヴィルックネン |
1927年 |
次代 パーヴォ・ヴィルックネン |
| 先代 パーヴォ・ヴィルックネン |
1929年 |
次代 パーヴォ・ヴィルックネン |
| 先代 オスカリ・マンテレ |
第17代:1929年 - 1930年 |
次代 ペール・スヴィンフヴュー |
| 先代 ユホ・スニラ |
1930年 - 1936年 |
次代 ヴァイノ・ハッキラ |
| 先代 トイヴォ・キヴィマキ |
第21代:1936年 - 1937年 |
次代 アイモ・カヤンデル |
| 先代 ペール・スヴィンフヴュー |
第4代 : 1937年 - 1940年 |
次代 リスト・リュティ |
