オリエンタルビル

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オリエンタルビル株式会社
Mitukoshi Nagoya Sakae Honten.jpg
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 460-0008
愛知県名古屋市中区栄3丁目5番1号
設立 1952(昭和27)年9月
業種 不動産賃貸業
法人番号 5180001035064
事業内容 不動産賃貸・レストラン経営
代表者 平松 潤一郎
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オリエンタルビル株式会社は、愛知県名古屋市中区に本店を置く不動産賃貸会社。

概要[編集]

名古屋市中区栄三丁目で三越ラシックに、名古屋市名東区極楽でヤマナカにビルや店舗を賃貸している不動産賃貸業。その他イタリアンレストランも経営

歴史[編集]

オリエンタルビルの創業者は平松さわ(女性経営者)1893(明治26)年 愛知県西春日井郡清洲町(現在の清須市)に出生

さわは三井物産の代理店として鶏の飼料を扱っていた平松豊助商店の経営者である平松豊助と結婚

1913(大正2)年に平松豊助商店は、中国や朝鮮との取引が拡大し業績を伸ばすと、 豊助は商売で成功したため、地位と名誉を求め県会議員として活躍すべく政治の世界へ転身した。

その結果、平松豊助商店は妻のさわが切り盛りするようになった。

1934(昭和9)年に豊助が死去、その後は41歳のさわが女手一つで商店を取り仕切った。 飼料の輸入先を中国・朝鮮から満州に変更するなど事業規模を拡大し業績は順風満帆の中、 終戦を迎えたため、軍の要請で大量に調達していた食料品を軍に引き渡す前に代金回収不能となり在庫を大量に抱えた。

さわはこの苦境に、在庫のニシンやスルメなどを使い佃煮を作り売り、鶏卵も取り扱ったところこれらが大当たり、 戦前とは比較できないくらいの利益を商店にもたらした。

創業[編集]

さわは戦争で焼け野原になった名古屋を見て「土地」に目を付けた。

1946(昭和21)年 現在の名古屋三越栄店と中日ビルの間、現在のバスターミナルの辺りに、商店の利益を使い栄の一等地約700坪を購入し、2階建ての洋館「ヤマトホテル」を建設した。40室程度の小さいホテルだったが、終戦当時名古屋で唯一のホテルであった名古屋観光ホテルが、米軍に接収されていたため繁盛した

1947(昭和22)年、名古屋市再開発の一環100m道路の建設計画が転機となる。100メートル道路久屋大通に「ヤマトホテル」が掛かるため、現在の三越がある場所へ移転を余儀なくされた。これを機に周辺の土地を購入しビル建設へと向かっていく。

当初の計画は3階までが百貨店、4階から8階までが映画館、銀行、ホテル、オフィス、屋上にはスポーツランドという全国でも初めての複合ビルを建てようと目論んだが、建設省より大規模建築制限法が施行され、「8階建てを3階建てに変更せよ」と命じられた。 戦後の資材不足の折り、もったいないということでの命令だったようだ。 しかし、ただでは起きないさわは、後の増築を見越して8階建て用の基礎工事を行った。

創立[編集]

1952(昭和27)年9月7日、オリエンタルビル株式会社の設立登記完了

テナントはビルオーナーである当社が直接募集するという専門店ビルを目指したが、当時は家賃を払って商売をするという発想がなく、全く集まらなかった。

集合ビルをあきらめ、1社一括賃貸に方針転換をしたところ、中村呉服店が手を挙げた。

栄という繁華街に進出していた伊藤呉服店(のちの松坂屋)、十一屋呉服店(のちの丸栄)に比べ、広小路本町というオフィス街で出後れていた中村呉服店との思惑が一致、全国で初めて賃貸物件入居の百貨店としてスタートを切った。

オリエンタル中村百貨店に賃貸[編集]

1954(昭和29)年2月8日に中村呉服店と正式調印を行い、オリエンタルビルも百貨店の経営に参加することになり、中村呉服店が当社の名前を組み入れた「オリエンタル中村」と社名変更を行った。

開店は1954(昭和29)年5月 3階建ての店舗に4日間で26万人もの人々が来店。オープンとほぼ同時の6月に名古屋テレビ塔が完成し、同年8月には地下鉄工事が始まるなどまさに戦後の復興時期と言える。

世の中が神武景気で沸き立つ1956(昭和31)年10月、7階建てに増築。1957(昭和32)年には名古屋・栄間の地下鉄東山線が完成し、来店客数の増加を大いに後押しした。

これ以降、順次土地を広げ、隣地600坪に8階建てのビルを建設し、1962(昭和37)年10月に完成。これにより床面積が14,000坪となり、久屋大通と接した。

平松さわは、さらに広小路通と久屋大通に接する北側角地の取得を目指したが、地価が急上昇しており、最終的には402坪の内116坪を当社、74坪が百貨店、残り212坪を3名の所有者が共同で購入することになった。 この土地に地上8階、地下2階の共同ビルを建て、1969(昭和44)年9月にオーブン。

この結果、昭和29年に売り場面積4,000坪でスタートした百貨店は19,000坪となる大百貨店へと成長した。

しかし、創業以来隆盛を誇っていたオリエンタル中村百貨店だったが、1975(昭和50)年から経営に変調を来すこととなり、従来から業務提携を行っていた三越と資本提携の話に進むこととなった。

名古屋三越百貨店に賃貸[編集]

1977(昭和52)年5月 三越がオリエンタル中村に資本参加

1980(昭和55)年10月1日 社名変更し名古屋三越百貨店となる。

これで名古屋の百貨店は、松坂屋、丸栄、名鉄百貨店とあわせ三越の頭文字が全てMになったため4Mと呼ばれるようになった。

その後三越本体が変調をきたし、伊勢丹と経営統合, 2008(平成20)年に三越伊勢丹ホールディングス

2011(平成23)年に完全に経営統合し三越伊勢丹となった。

2010(平成22)年松坂屋も大丸に吸収され大丸松坂屋百貨店となり、2018(平成30)年に丸栄も百貨店を廃業したため、4Mは事実上解体した。

オリエンタルビルは不動産賃貸業のため、賃借人である百貨店の名称変更は直接の影響はない

社名の由来[編集]

社名「オリエンタル」の由来には特段の意味なく、創立当時「カタカナの社名が格好良い」「オリエンタルと名付けてつぶれた会社はない」とのことで付けられた。

カレー製造業の「株式会社 オリエンタル (食品メーカー)(愛知県本社)」とは人的・資本関係はない。

屋上観覧車[編集]

オリエンタルビル屋上にデパートの屋上として日本最古の観覧車がある。

1956年(昭和31年)製、鉄骨造、高さ12m、脚間6.2m、脚幅7.4m[1]

2007年(平成19年)国の登録有形文化財として登録[1]

当時の屋上遊園地には、観覧車のほかに、豆自動車、ラビット、木馬などの遊具が置かれた。 観覧車は、鉄骨製アーチ形ポスト(脚間6.2m、幅2.7m、高さ6.7m)を両側に立て、その間に、鉄骨トラスの直径10mの円形ホイールを取り付け、その端に4人乗りのゲージ9個を吊り下げたもの。約4分間で1周する。 日本の観覧車は明治後期から登場しているが、オリエンタルビル屋上の観覧車は、デパート屋上の観覧車としては、最も古いものの一つとされる。

脚注[編集]

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  1. ^ a b オリエンタルビル屋上観覧車”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2019年5月15日閲覧。

出典[編集]

外部リンク[編集]