総統

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総統(そうとう)とは、国家元首またはそれに匹敵する国家の最高指導者の地位を表す名称の一つ。日本語における「総統」の語義は「全体をすべくくること」[1]で、現代の中国語では「大統領」を意味する。そのため、日本語としての用例はほとんど、中華民国の国家元首のほか、ドイツアドルフ・ヒトラーイタリアベニート・ムッソリーニスペインフランシスコ・フランコの地位を示す場合に限られる。

ドイツ

ドイツ史において総統は、ナチス・ドイツの最高指導者、アドルフ・ヒトラーに対して用いられることが多い。

ヒトラーの地位

Führerの語義

ドイツ語でヒトラーの地位を意味する語句はFührerである。この言葉は山岳ガイド、官庁における自動車や電車の運転手の呼称としても用いられている(参照:ドイツ語版Führer)。日本においては「指導者」と訳されることが多いが、英語圏で指導者を意味するleaderはドイツ語圏ではleiterとなる。

政治運動におけるFührer

このような意味を持つ「Führer」が政治運動の指導者の肩書きとして使用される端緒となったのは、オーストリア=ハンガリー帝国においてドイツ国民運動de)を率いたゲオルク・フォン・シェーネラー(de)が、1879年に自らの肩書きとして「Führer der Deutschnationalen Bewegung」(ドイツ国民運動の指導者)を用いたことである。ドイツ敗戦後のヴァイマル共和国に成立した多くの政治運動も指導者の名称としてFührerを採用した。

ナチ党のFührer

1921年7月29日、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)の幹部会によって第一議長に就任した。この頃から、ヒトラーの支持者であるディートリヒ・エッカートルドルフ・ヘスらはヒトラーの呼称として「Führer」を用い始め、次第に党内に定着した[2]。ヒトラーはナチ党内の支配体制として『指導者原理』(Führerprinzip)を採用した。これは党内を階層化し、それぞれの階層はそれぞれの階層のFührerに従い、そのFührerは上位のFührerにのみ任命され、従属しなくてはならないという仕組みである。また党内の半軍事組織である突撃隊親衛隊国家社会主義自動車軍団などの党内組織の階級には親衛隊全国指導者(Reichsführer-SS)や上級大隊指導者(Obersturmbannführer)のようにFührerが付属した階級名が用いられている。

首相期のFührer

1933年、ヒトラーはドイツの首相Der Reichskanzler)に就任し政権を掌握した。彼の公文書における官職名は無論ドイツ国首相であったが[3]、ナチ党党員からは「Der Führer und Reichskanzler」(指導者兼ドイツ国首相)と呼ばれた。ヒトラーは就任直後に議会を解散し、選挙活動を開始した。この選挙中の2月1日、ナチ党は「われわれは国民と国家の指導者(nationale Führer)として神に対し、我々の良心に対し、わが民族に対し、われわれに与えられた使命を断固実現することを誓約するものであります。」[4]というアピールを行った。

選挙がナチ党の圧勝で終わった後の3月21日、国会開会式においてヒトラーは次のような演説を行った。

「自らの民族への信頼に根ざし、新たな共同体を形成せんとするドイツ統一の新しい運動が生まれました。この若いドイツに対し、閣下(ヒンデンブルク大統領)は高潔な決断をもって、1933年1月30日、ライヒの指導を託されたのです」[5]

これはヒトラーがナチ党の勝利を、従来の統治とは異なる「ライヒ指導」つまり「ナチス党及びその指導者であるヒトラーが民族とライヒを指導する」という新たな政治形態が信任されたと定義したものであった」[4]この定義はナチ党の公式見解となり、第五回ナチ党党大会においてヒトラーは「ナチス党は、1933年1月30日、ライヒの政治指導を委託された」と演説し、ルドルフ・ヘスも「党が民族意思を組織的に表現する。それ故、党が国民と国家(Nation)指導の担い手であり、当然の結果として、党の指導者が国民と国家の指導者となったのだ」「あなた(ヒトラー)は、国民と国家の指導者として、われわれの最終的勝利の保証人なのです。われわれは、あなたの中に体現された国民と国家の指導者に対し心より歓迎の意を表するものです」と応じた[6]

ドイツ国のFührer

1934年8月1日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が危篤になると、ヒトラー首相は「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定した。この法律の第一条には、ヒンデンブルクの死後に「ドイツ国大統領の官職はドイツ国首相の官職と統合される。それにより、ドイツ国大統領の従来の権限は指導者兼ドイツ国首相であるアドルフ・ヒトラー(Der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler)に委譲される。彼は自らの代理人を定めるものとする。」とあり、単に首相職と大統領職の統合だけではなく、大統領の権限は「(Führer und Reichskanzlerである)アドルフ・ヒトラー」個人に委譲されるというものであった[7]

これにより、国家の枠外にあり、国家を超えるFührerが国家の上に立ち、憲法体制を支配するという体制が完成した[8]。この手続きは8月2日のヒンデンブルクの死とともに発効した。その後、ヒトラーは8月19日にこの措置の正統性を問う国民投票を行うことを決めた。この国民投票自体は総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが全く不必要な措置としているように、ヒトラーの法的地位に関して影響を及ぼすものではなかったが、ヒトラーは「ドイツ国の新たな憲法体制を生み出す権限を、先に私に与えられた全権から導き出すことを拒否しなければならない。否、それは民族自らが決定するものでなければならない」として、自らの地位を民族からの委託に基づくものであることを示そうとした。投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票を投じ、ヒトラーの地位は盤石なものとなった。翌日、ヒトラーは「ドイツ国は今日ナチス党の手の中にある」「民族同胞諸君の投票により全世界に向かって国家と運動の統一が表明されたのだ」という布告を一切の肩書き無しで行った[9]

この「指導者兼ライヒ首相アドルフ・ヒトラー」という称号は、文字通り、アドルフ・ヒトラーの人格を介した運動と国家の結合という前例のないものであった。ヴァイマル共和国すべての大統領府長官をつとめたオットー・マイスナーは「今回の立法措置により、指導者(Führer)は「国家の機関(Staatsorgan)」となり、また「国家の人格(Staatspersönlichkeit )」となったと主張している[10]。一方で内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートは「指導者(Führer)の官職は国家法的に何か全く新しいものである」とし、「独裁者でも、絶対君主でもない。彼はまた立憲君主や大統領とも比較可能なものではない。」としているが、法学者ハインリヒ・トリーペルde)は「指導者は通常の法律用語の意味で官職を有するものではない」とし、ラインハルト・ヘーンde)もまた「指導者(Führer)と官職の保持者は本質的に異なるものである」とした。このように「Führer」に対する見解が分かれているのは、「Führer」やその権限を定義する法律が最後まで成立しなかったことにある[11]

これ以降、Führerの使用が浸透すると首相の称号は重視されなくなり、1939年以降、公文書ではDer Führerと表記することが通例となった。その後ヒトラー自身は単に名前を署名するだけで、肩書を付けることも無くなっていった。

1941年と1942年に開かれた冬季救済事業の開幕式でヒトラーは「神は、1933年1月30日、私に対しライヒの指導を委託した」と演説し、ヒンデンブルクやドイツ民族がFührerの権限の源泉であるとは主張しなくなっていた。

Führerによる統治

Ein Volk Ein Reich Ein Führer(一つの民族、一つの国、一人のFührer)のスローガンが掲示されたナチ党の集会。1938年3月

ナチ党の定義ではFührerは民族の中から選ばれるものではなく、民族が必要とする時により高次の存在から与えられるものであるとされた。またFührerの権威はFührer個人の人格と不可分であるとされた。このためFührerは「一回限り」の現象であり、その権威を譲渡するのは不可能であるとされた[12]

Führerの指導は法規範によるものではなく、「人格指導」によって行われた。大統領や首相が法律に定められた権限を持つのに対し、Führerの権力は民族の最終日標や生存法則等の世界観以外の他のいかなるものにも制約されなかった[13]。また指導者はいわば無謬の存在であり、民族共同体の唯一の代表者であると定義され[14]、官吏や軍人は憲法ではなくFührer個人への忠誠が求められた(忠誠宣誓)。また、政治家の権力は法や官僚機構によるものではなく、Führerとの人格的距離によって権力が定まった[15]。ヒトラーは「Führerの決定は最終決定であり、無条件の服従が求められなければならない」と語っている。この思想はゲーリングが提唱した「Führerが命令する、私たちは従う」というスローガンによく現れている。

1933年12月1日には『党と国家の統一を保障するための法律』が公布され、ナチ党は「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、国家と不可分に結ばれた。」と定義された。しかしこれは「党が国家に吸収された」というものではなく、党及び国家は民族の指導者の手の中にあって、民族の最終目標に奉仕する一つの手段、装置として位置づけられたものである[16]。これはヒトラーが「我が闘争」で「国家は目的ではなく、一つの手段である」と定義したものに符合したものである。しかし実際の現場において党と国家の役割の区分は曖昧であり、その区分はFührerの裁量で行われるものとなった。このため党機関や政府機関の間で権限をめぐる勢力争いが頻発した。

Führerに指導される民族には、指導者にとって望ましい民族であることが望まれた。このため民族には画一的な思想や行動をとる、強制的同一化(強制的同質化、Gleichschaltung)が求められた。

1942年4月26日、ナチス・ドイツにおける最後の国会でFührerは「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これによりFührerは法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった[17]

ヒトラーは最終的には、一党独裁体制下における支配政党の党首、首相、立法権の掌握者(全権委任法)、国家元首、国防軍最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった。

消滅

1945年4月、ヒトラーは自殺に先立つ遺言書において、大統領兼国防軍最高司令官にカール・デーニッツ海軍元帥、首相(Reichskanzler)にヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党担当大臣(Parteiminister)にマルティン・ボルマン陸軍総司令官(Oberbefehlshaber des Heeres)[18]フェルディナント・シェルナー陸軍元帥をそれぞれ任命し、掌握していた権限を分割した。しかし「Der Führer」の後継は指名されず、Führerの地位はヒトラーとともに消滅した。

日本におけるヒトラーの呼称

当時の日本において、野党時代のヒトラーは「党首」「首領」などの肩書をつけて呼ばれていた。1934年にヒトラーが国家元首の権能を吸収した当初は『大統領』や『首相』の語も用いられたが、やがて『総統』が主に用いられるようになり、しだいに定着した。総統の語自体は少なくとも国家元首就任後間もない頃から使用されている[19][20]。またヘスの地位である「Stellvertreter des Führers」も副総統等と訳されるようになった。

その後ヒトラーの地位の日本語訳として「総統」が使用されることが一般的となり、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることが多くなった[21]。この場合、「Führer」を総統と翻訳するケース(『総統兼首相』)[22][23]や、1934年以降の国家元首としてのヒトラーの地位を総統[24][25]と訳するケースもある。また村瀬興雄は大統領権限吸収以前のFührerを「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。

また、当時の日本語の新聞では大統領に就任したデーニッツの地位を「総統」と訳した事例もあり[26]、その後もデーニッツを第2代総統として表記する例も存在する。

参考文献

関連項目

イタリア

イタリア総統は、イタリア語Duce (ドゥーチェ)の訳語の一つ。Duceはドイツ語の Führer に相当する単語であり、日本語では統領と訳されることが多い(統帥と訳されることもある)。総統と訳されるのはベニート・ムッソリーニの肩書としての場合に限られる。

ドゥーチェは元々、ファシスト党の党首を指す名称である。ファシスト党党首ベニート・ムッソリーニが1922年10月イタリア王国の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から首相に任命され、独裁体制を確立したことにより、ドゥーチェはファシスト・イタリアの最高指導者の地位を表す称号となった。ただし、法律上は国家元首の国王が存在し、ムッソリーニ自身の役職は首相であること(つまり、ムッソリーニは国家元首ではない)、また軍隊も彼ではなく国王に対し忠誠を誓っているなどの点で、ドイツの総統に比べると独裁の程度は弱い。実際にムッソリーニは、1943年7月に国王から首相を罷免されると、その場でイタリア軍に身柄を拘束され幽閉された。

スペイン

スペイン総統は、スペイン語Caudilloカウディーリョ)の訳語の一つ。Caudillo は、ドイツ語のFührer、英語のleaderに相当する単語で、本来は頭目や親分を意味するが、統領とも訳され、スペインイスパノアメリカでは独裁権を握った政治・軍事指導者に対して使用された称号である。一般的に、スペイン王国の国家元首フランシスコ・フランコの称号として総統と訳される。また、フランコの称号としてGeneralísimo(ヘネラリッシモ)もあるが、これはgeneral (将軍)に増大辞の -isimo がついた語で、将軍の上位にあって陸海空の三軍を統括する地位を意味する。このスペイン語の単語は、大元帥総帥総司令官などと訳される。

スペイン内戦において反乱軍内の指導権を確立したフランコ将軍は、1936年10月1日ブルゴスにおいて、反乱軍の総帥(Generalísimo ヘネラリッシモ)に指名され、反乱軍側の国家元首(Jefe de Estado ヘーフェ・デ・エスタード)に就任した。その際、フランコは国家元首としての自己の称号を総統El Caudillo エル・カウディーリョ)と定めた。以後、フランコは軍隊の総司令官として総帥(ヘネラリッシモ)、国家元首として総統(カウディーリョ)と呼ばれることとなる[27]。フランコ政権は1938年1月30日に内閣制度を導入し、フランコは国家元首兼首相となった。その後、1939年3月27日にフランコ軍は首都マドリードに入城、31日にはスペイン全土が制圧され、4月1日フランコは内戦終結宣言を発した。こうして名実共に独裁体制を確立したフランコは、さらに1947年、「王位継承法」を制定し、スペイン国を「王国」とすること、スペイン国の国家元首をフランコ総統とすること、また、フランコが終身の統治権を有し、後継の国王の指名権を持つことなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票によって成立し、フランコは終身国家元首の地位に就いた。

フランコ総統は1969年、自分の後継者として元国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを指名した。その後1973年6月に首相を辞任、1975年11月に82歳で死去した。その2日後、フアン・カルロス1世は国王に即位した。それまでの言動から独裁体制を継承すると思われていた国王であったが、予想に反して民主主義体制の整備を急ぎ、1978年12月、国王の権限を儀礼的なものに限定して権力分立を定めた憲法を、国民投票による承認を受けた上で公布した。こうして、スペインの独裁時代は幕を閉じ、「総統」の称号も消滅した。

中華民国

中華民国においては建国当初の国家元首の名称は大総統であった。1912年に南京において成立した中華民国政府は孫文を臨時大総統としており、初代大総統袁世凱以降、北京政府は大総統の称号を使い続けた。しかし国民党によって組織された国民政府では主席を国家元首の名称として使用したが、1948年以降は国家元首として「総統」の名前を用いている。

国民からの民主化の要求が高まり、自らも民主化を望んでいた李登輝総統は、1996年、総統の直接選挙制度を導入した(台湾総統選挙)。この改革により総統の地位は、「建国の父」孫文が模範としたアメリカ合衆国大統領と、直接選挙と間接選挙といった選出方法の違いや首相職の有無などはあるものの、権限および権威の面で非常に似たものとなった。

一般に中国語では、英語のPresidentの訳語として、「総統」を用いている(「zh:總統」、例えば、アメリカ合衆国大統領も「美国総統」と表記される)。このため、日本語を学習した台湾人には、日本語でPresident大統領と訳し、「総統」の用例が上述のようなものであることから、日本人に自国の国家元首を「総統」と呼ぶのを避け「大統領」と説明する者もいる。

その他の国での用例

「総統」の訳語が使われるのは、ほとんど上記4例に限られているが、下記の用例もある。

クロアチア

クロアチア独立国では、独裁者アンテ・パベリッチPoglavnik(ポグラヴニク)の称号を名乗っており、これが国家指導者または総統と訳される。建国当初、同国の国家元首は国王であるトミスラヴ2世(在位:1941年 - 1943年)であったが、これは形式上の地位にとどまり(国王は終始イタリアに滞在し、ついにクロアチアに足を踏み入れることがなかった)、ポグラヴニクであるパベリッチが事実上の国家元首であった。さらに、1943年にはトミスラヴ2世が退位したため、パベリッチはポグラヴニクの称号のもとに名実ともに国家元首となった。とはいうものの、クロアチア独立国自体がナチス・ドイツの保護下にある傀儡国家であった。

ルーマニア

ルーマニア王国では、1940年、イオン・アントネスクは国民投票の結果「Conducător」と呼ばれる地位に就き、1944年にルーマニア革命で失脚するまで事実上ルーマニアの独裁者となった。Conducătorは英語のleaderに相当するルーマニア語であり、国家指導者と訳すのが通例であるが、総統と訳す場合もある。ただし、ルーマニア王国には国王が存在したため、アントネスクの地位は国家元首ではない。

なお、戦後の共産政権で大統領となったニコラエ・チャウシェスクも1968年頃から「Conducător」と呼ばれたが、これに「総統」という日本語訳を宛てる事例はない。

フィクション

ガミラスの総統は、日本の代表的アニメ番組『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに登場する、ガミラス帝国の元首の地位を示す称号。ナチス・ドイツの総統がモデル。作中でこの地位にあったのは、デスラーである。この名前はヒトラーに非常に似ており、ヒトラーをもじったものと説明されていたが[28] 、1990年代末になって監督である松本零士が後付けでヒトラーが語源ではないと説明するようになった(デスラーの項参照)。ただし、副総統のヒスガイデルドメルなどナチス・ドイツの高官と類似した名前のキャラクターも複数登場しており、同作プロデューサーの西崎義展はドイツがモデルであると発言している。また、同じシリーズ作品中には、別の星間国家に「聖総統」「大神官大総統」という役職が存在する(スカルダートの項および、ルガールの項参照)。

これ以外の作品においても、ヒトラーをモチーフとしたキャラクター、悪の国家の元首、悪の組織の首領などが総統を名乗る例は散見する。前者の例としては『仮面ライダーX』に登場したヒトデヒットラーが「総統」を自称している。『ルパン三世』シリーズにはハトラー総統というヒトラーのパロディキャラクターも登場した。後者では『UFO戦士ダイアポロン』のダザーン総統、『超合体魔術ロボ ギンガイザー』の総統カインダーク、『バトル・ロワイアル』における国家の最高指導者・総統などがある。『ジャッカー電撃隊』にはヒトラーを尊敬するクロコダイル総統という、両方に当てはまる怪人が登場した。『大戦隊ゴーグルファイブ』『超電子バイオマン』では敵組織デスダーク、新帝国ギアの首領である総統タブー、総統ドクターマンが総統を名乗っている。

脚注

  1. ^ 『日本国語大辞典』第12巻。このほか、『大漢和辞典』巻8には「全体のことがらをすべ纏める」とある。「総統」の語の出典は、『漢書』百官公卿表の「太師、太傅、太保、是為三公。蓋参天子、坐而議政、無不総統」から。
  2. ^ 村瀬、208p
  3. ^ 全権委任法での署名など。
  4. ^ a b 南、指導者-国家-憲法体制の構成、4p
  5. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、3-4p
  6. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、5p
  7. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、19p。また翌日、ヒンデンブルクの死去に伴って発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びドイツ国首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている。南、21p
  8. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、21p
  9. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、22-24p
  10. ^ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、21p
  11. ^ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、40-42p
  12. ^ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、13p
  13. ^ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、39p
  14. ^ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、51p
  15. ^ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、43-46p
  16. ^ 南、指導者-国家-憲法体制における立法(1)、115p
  17. ^ 指導者-国家-憲法体制における立法(3)、45-56p
  18. ^ ヒトラーは1941年12月19日より陸軍総司令官を兼務していた。
  19. ^ 政治犯に特赦令を発布 : なかなか味をやるヒトラー首相1934年(昭和9年)8月11日大阪時事新報
  20. ^ 昭和9年(1934年)12月外事警察報第149号
  21. ^ ジョン・トーランド著、 永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)全4巻
  22. ^ 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  23. ^ 「ヒトラー政府初期の雇用創出計画(失業対策)について[1]阿部正昭法政大学教授論文
  24. ^ 世界大百科事典 第2版』(平凡社)ヒトラーの項
  25. ^ 高柳光壽竹内理三編『角川日本史小辞典』第2版(角川書店)1974年
  26. ^ 1945年(昭和20年)5月6日付読売新聞(JACAR(アジア歴史資料センター)、Ref.B04013495500 、第5~6、31画像目)を参照。
  27. ^ 色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』中央公論新社、2000年。
  28. ^ 「松本零士 夢のANIMATION WORLD」『アニメージュ』1980年7月号、徳間書店、p.48。松本零士のコメント。