麦茶

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コップに入れられている麦茶

麦茶(むぎちゃ)は、搗精焙煎した大麦種子を煎じて作った飲料である。麦湯(むぎゆ)ともいう。チャノキを使用していないため、厳密にはでないが、広義の茶(茶外茶)に分類される。

概要

大麦の種子を煎じたもので、一般的な茶葉カフェイン成分が含まれていないため、幼児が飲むのにも適している。 しかし、メーカー、製法によって紅茶やウーロン茶の粉を混ぜて冷水でも速く色を出すという商品もあり、カフェイン、タンニンを含む場合があるので妊娠中、乳児に与える場合には留意されたい。また、煮出して一晩たったものは酸化するため乳幼児や妊婦には与えない方がよいと昔から言われている。

季節としては、冷やしたものがよく飲まれる。また、初夏は大麦の収穫期でもあるため、夏の麦茶は新鮮で味も良い。でも温めて飲む場合もある。体温を下げることや、血流を改善する効果が知られている。砂糖を入れて飲むこともある。

1986年(昭和61年)には全国麦茶工業協同組合が毎年6月1日麦茶の日と定めている。

日本の麦湯・麦茶の歴史

麦茶のティーバッグ

麦湯は、平安時代より貴族が飲用していたとされる。以後、室町時代まで貴族が飲用し、戦国武将にも飲まれた。江戸時代には屋台の「麦湯売り」が流行した。天保に書かれた『寛天見聞記』には「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」とあるように専門店である「麦湯店」も出現した。これは麦湯の女と呼ばれる14~15歳の女子が、一人で食事も何もなく麦湯のみを4文ほどで売るものであった。なお、大麦の収穫時期は初夏であり、獲れたての新麦を炒るのが美味であるため、夏の飲料とされた。明治時代に麦湯店も流行ると同時に、庶民の家庭でも「炒り麦」を購入し飲用されるようになった。

昭和30年代に冷蔵庫が普及し、冷やして飲む習慣が生まれる。麦茶という商品も売られ始め、昭和40年代には日本全国で麦茶の名称が一般的に浸透した[1]。なお、名称は太平洋戦争前には東日本六条大麦を使用した麦湯、西日本裸麦使用の麦茶となっていたという。

1963年(昭和38年)に常陸屋本舗が大型コーヒー焙煎機を輸入し、それを利用して麦茶の大量生産を開始し[2]、同年に日本初のティーバッグ麦茶(煮出し専用タイプ)が同社から発売された[1]

1965年(昭和40年)に水出しタイプとして初のティーバッグ麦茶が石垣食品から発売された[2]

1978年(昭和53年)には初の容器入りリキッド(液体)タイプ、1リットル紙パックタイプチルド麦茶が乳業メーカー数社から発売された[3]

1980年(昭和55年)にはハウス食品が大手食品メーカーとして麦茶市場に初参入し、冷水用と煮出し用のティーバッグ麦茶を同時発売し、1980年代にはペットボトル入りの麦茶が発売されたことによって、規模が小さかった麦茶市場が発展して市場規模が拡大していった[3][4]。その後、ポーション(濃縮液)タイプの麦茶も発売されている。

現代において、麦茶を家庭で作る場合は、粒状の物を用いて煮出すことは少なく、利便性・経済性が向上した煮出し・水出し用のティーバッグを使用することがほとんどである[5]。ただし、これらは粒状の物と比べて「香ばしさ」「うまみ」「香り」が落ちる傾向である[5]。また、麦茶の性質上リットル単位で作ることが前提となっており、また専用のボトルなどを用意する手間もかかるため、近年では手軽に飲める缶・ペットボトル入り飲料タイプのものや、水に溶かして一人分ないし数人分を作れる濃縮液タイプのものも利用されている。

ヒポクラテスの煎じ薬

麦茶に類似したものについて、古代ギリシアの医聖ヒポクラテスによる治療法の処方文献に、発疹した患者に発芽した大麦の煎汁を飲用させ排尿量を増やすというものがあった。ギリシア語でプティサーネー("ptisane")と呼ばれたこの大麦煎湯は、原液のまま、あるいは稀釈や濾過により飲みやすくしたものが飲用されたという。

"ptisane" とは、"ptisane" = 脱穀に由来する語である。のちにラテン語の"ptisana"(プティサナ、大麦湯、精白した大麦)となり、フランス語の "tisane"(ティザーヌ、ハーブティー)の語源となった。

脚注

参考文献

外部リンク