西村一義
西村一義 九段 | |
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名前 | 西村一義 |
生年月日 | 1941年12月14日(82歳) |
プロ入り年月日 | 1963年10月1日(21歳) |
引退年月日 | 2006年6月15日(64歳) |
棋士番号 | 87 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 佐瀬勇次名誉九段 |
弟子 | 藤井猛、三浦弘行、阿部健治郎、星野良生、山田久美、藤田綾、北尾まどか |
段位 | 九段 |
棋士DB | 西村一義 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 2回 |
通算成績 | 778勝742敗(.511) |
竜王戦最高クラス | 2組 |
順位戦最高クラス | B級1組 |
2017年8月24日現在 |
西村 一義(にしむら かずよし、1941年12月14日 - )は、将棋棋士。2006年、引退。愛知県名古屋市出身。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号87[1]。
経歴
1941年12月14日に愛知県で生まれ、2歳の時に岐阜へ疎開した[2]。その後愛知県に戻り、中学2年の頃に本格的に将棋を学び始め、中学卒業後にプロを目指して上京した[2]。クリーニング店で住み込みで働きながら将棋道場に通い、土居市太郎門下の関屋喜代作四段(当時)、大内延介4級(当時)、高柳敏夫門下の中原誠などの指導を受けた[2]。一度はプロを諦めて2年間将棋を離れたが、転職を経て再び将棋を始めた[3]。
1961年、アマ名人戦で東京都代表となり、佐瀬勇次の紹介により20歳で奨励会試験を受け、1級で入会した[3]。1963年に四段となり、五段時代の1969年王位戦で大山康晴に挑戦した。五段でのタイトル挑戦は初めての記録だったが[1]、七番勝負を2勝4敗で敗退[4]。
1972年に順位戦B級1組に昇級し、以後2度の降級を挟みつつ12期の間戦った[1]。タイトル初挑戦の18年後の1987年には棋聖戦で桐山清澄に挑戦して敗退[5]。タイトル戦の登場間隔18年は史上最長(女流棋戦では弟子の山田久美がタイトル戦の登場間隔25年)。勝数の累積により1984年に八段、1999年に九段へ昇段した[6]。2006年に現役を引退した[1]。
1974年から1992年まで日本将棋連盟理事を務めた[1]。2005年から専任理事になり、総務・経理を担当した[1][7]。
人物
- 大内延介と並ぶ振り飛車穴熊の先駆者としても有名。田中寅彦によると「穴熊党副総裁」と呼ばれた(総裁は大内)という話である。また、当時は珍しいといわれた居飛車穴熊も多く指しこなしている。
- 弟子に藤井猛、三浦弘行、阿部健治郎、星野良生、および、女流棋士の山田久美、藤田綾、北尾まどかがいる。藤井と三浦は2001年にA級へ同時昇級、タイトルも獲得する活躍をしている。また、藤井と三浦と星野は升田幸三賞を受賞している。
- 2016年秋の叙勲で旭日双光章を受章。
将棋ソフト不正使用疑惑に対して
詳細は「将棋ソフト不正使用疑惑」を参照
昇段履歴
- 1961年 1級 = 奨励会入会
- 1962年 初段
- 1963年10月1日 四段 = プロ入り
- 1966年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1971年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1972年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1984年4月1日 八段(勝数規定)
- 1999年9月28日 九段(勝数規定)
- 2006年6月15日 引退
戦歴
タイトル挑戦
挑戦2、獲得0
棋戦優勝
将棋大賞
- 第30回(2002年度) 東京将棋記者会賞[6]
参考文献
- 西村一義 著「私の歩いている道」、越智信義 編『将棋の風景 随筆選集』毎日コミュニケーションズ、2002年。ISBN 4-8399-0443-X。[注釈 1]
脚注
出典
- ^ a b c d e f g h i 青野照市編 編『将棋年鑑 平成21年版』日本将棋連盟、2008年、523頁。ISBN 978-4-8399-3261-9。
- ^ a b c 「私の歩いている道」32-35頁
- ^ a b 「私の歩いている道」35-38頁
- ^ a b “王位戦|棋戦|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ a b “棋聖戦|棋戦|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ a b c d “西村一義|棋士データベース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ “新理事担当部署のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ 将棋界内紛!三浦九段の師匠が「連盟は慰謝料1億円を支払え!」(「週刊ポスト」2月10日号)
注釈
- ^ 「棋友」1972年12月号からの収録