羽生城

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羽生城
埼玉県
羽生城跡
羽生城跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 広田直繁大久保忠隣
主な城主 木戸氏成田氏大久保氏
廃城年 慶長19年(1614年
遺構 天神曲輪跡
指定文化財 羽生市史跡
再建造物 なし
位置 北緯36度10分32.7秒 東経139度33分0.7秒 / 北緯36.175750度 東経139.550194度 / 36.175750; 139.550194
地図
羽生城の位置(埼玉県内)
羽生城
羽生城
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古城天満宮
本殿
所在地 埼玉県羽生市東5-7
位置 北緯36度10分32.6秒 東経139度33分00.5秒 / 北緯36.175722度 東経139.550139度 / 36.175722; 139.550139 (古城天満宮)
主祭神 菅原道真
創建 879年
別名 天神社
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羽生城(はにゅうじょう)は、埼玉県羽生市に存在した日本の城16世紀初頭の築城とされ、永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵以降、上杉方の関東攻略の拠点となったが、後北条氏の度重なる攻撃を受け天正2年(1574年)閏11月に自落した。その後、城は後北条氏から成田氏に与えられ、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封後は大久保氏に与えられ、慶長19年(1614年)1月に廃城となった[1]。羽生市の指定文化財(史跡)に指定されている[2]

歴史

築城時期

築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では弘治2年(1556年)、木戸忠朝[注 1]によるものと記している[4][5]。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない[6]。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神[注 2]には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で

武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝

と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている[8]。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である[9]

『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するための拠点とする狙いがあったとしている[10]

広田・木戸氏の時代

天文21年(1552年)頃に作成された『小田原旧記』によれば「当時武州羽丹生御城代 中条出羽守」とあり、この時期に後北条氏の攻撃を受けて落城し[8][11]、中条出羽守が城代を務めたと考えられる[12]。一方、城を追われた直繁らは他の土地に移り住んだとも、小松神社(後の羽生市小松)付近に移り住み、一時的に後北条方に従属したとも考えられる[13]

永禄3年(1560年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が常陸国佐竹義昭の要請により関東出兵を実施すると、かつて上杉氏の配下にいた多くの家臣が景虎の下に参陣した[13]。直繁はこの機会に羽生城の中条出羽守を攻めて城を取り戻し、弟の河田谷忠朝は配下の渋江平六郎や岩崎源三郎と共に景虎の下に参陣すると、同年11月12日(1560年11月29日)に、景虎から羽生城および羽生領を安堵された[14]。この後、武蔵国の武将の多くが後北条方に従属していく中で直繁・忠朝兄弟は一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになった[15]

永禄4年(1561年)、謙信が成田氏の本拠である忍城の支城・皿尾城を奪取すると、忠朝を配置した[16]。忍城主・成田長泰は前年の謙信の関東出兵の際には謙信の下に参陣したが、すぐに北条氏康に従属しており、長泰の動きを牽制する狙いがあった[16]。この後、皿尾城をめぐり二度に渡り攻城戦が繰り広げられたが、忠朝は岩付城主・太田資正の加勢もあり、これを退けた[16]

永禄12年(1569年)閏5月、武田信玄の関東出兵により謙信と北条氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ[15]、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められた[15]。永禄13年(1570年)閏5月、直繁が謙信から上野国館林城を拝領したため、皿尾城主の忠朝が新たな城主となった[17]。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した[18]

元亀2年(1571年)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北条間の抗争が再熱し、羽生領や深谷領は主戦場となった[18][19]。元亀3年(1572年)8月、謙信は後北条の軍勢が羽生・深谷方面をうかがう動きを見せると、忠朝らに救援のため出兵する旨を伝えたが、羽生勢は後北条方の北条氏照成田氏長らの軍勢の前に敗れた[20]天正元年(1573年)4月、北条氏政は軍勢を率いて深谷城上杉憲盛を攻撃し、憲盛を従属させると、同年8月には成田氏長の要請もあり羽生と忍の中間に位置する小松に着陣し、羽生城を攻撃した[21]

天正2年(1574年)4月、謙信は羽生城の救援のため越後春日山城から上野国館林城に着陣し、北条氏政の軍勢と利根川を挟んで対峙したが、川の増水のため渡河することができず、船による兵糧や物資の支援も後北条方の工作により失敗に終わった[22]。同年10月、謙信は下総国関宿城および羽生城の救援のため再び関東に出兵し、武蔵国の忍領、鉢形領、松山領などを次々に焼き払ったが、関宿城の救援には失敗した[23]。同年閏11月、謙信は羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れた[8]

成田氏の時代

この後、羽生城は忍城主・成田氏長の支配下に置かれ、『関八州古戦録』や『北越軍談』によれば成田大蔵少輔、桜井隼人佐[24][25]、『成田系図』によれば氏長の叔父にあたる善照寺向用斎、田中加賀、野沢信濃が共に城代を務めたと記されている[26]。これらの成田家臣に、『成田分限帳』に記された埴生出雲守、埴生助六郎、岩瀬半兵衛、川俣弥十郎などの在地にとどまった木戸氏の旧臣が従ったものと推測される[27]

一方、謙信は関東攻略を果たすことなく天正6年(1578年)に亡くなり、家督を上杉景勝が相続すると、翌天正7年(1579年)に甲斐国武田勝頼と同盟を締結した(甲越同盟[28]。同年7月、勝頼は上野国に侵攻し、西上野の沼田城、東上野の大胡、山上、伊勢崎などの後北条方の諸城を攻略した[28]。こうした状況の中で上野国に逃れていた木戸氏の旧臣の一部は、御館の乱の余波で混乱の続く上杉氏ではなく、勝頼を頼ったものと推測されている[28]。天正8年(1580年)1月、菅原直則は厩橋にある赤城神社に祈願状を出し、勝頼の下で羽生城の奪回および領地回復を図ろうとしたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡などにより叶うことはなかった[1][29]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、城代の向用斎は羽生城は放棄して忍城に籠城した[8]。忍城は1か月におよぶ籠城戦の末に開城した[8]

大久保氏の時代と廃城

後北条氏の降伏後、同年7月26日に徳川家康諏訪頼忠に羽生領を含む2万7千石の領地を与えたが[1]、同年8月に家康が関東に入封すると、羽生領は大久保忠隣に与えられ忠隣は2万石の領主となった[8][30][31]。ただし忠隣は羽生城に入城することはなく、家臣の匂坂道可[注 3]や徳森伝蔵が城代を務めた[4][8][5]

文禄3年(1594年)、忠隣は父・大久保忠世の死去に伴い家督を相続し、羽生領を含む6万5千石の領主となったが[31]、その後も城代家老らが羽生の領地経営にあたった[32]。その後、慶長19年(1614年)1月に忠隣が改易となり近江国に蟄居するように命じられると、羽生城も同時に廃城となった[8]

城郭・遺構

羽生城は利根川沿岸の舌状台地を生かした平城であり、その周囲は沼地に囲まれていたとされる[30][33]。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や福島東雄著の『武蔵志』には次のように記されている。

古城蹟
当城は平城にして西を首とし、東を尾とし、東南北の三方は沼にして、西の一方のみ平地に続き、此所に大手口ありし由、本丸と二の丸の境とおぼしき所に土手の跡残り、何様堅固の体なり、大手を入りて二の丸あり、そこの広さは東西南北四十間余、それより橋を渡りて本丸に至れり、此所は少しく地高く形円やかにして東西六十間余、南北四十間余、ここより良に当たり、天神曲輪と云あり、南の方に小沼と云沼一ヶ所、また北の方にも今はわずかの蓮池及び蒹葭生い茂れる、広き沼あり、何れも城ありし頃固めの沼なりし — 新編武蔵風土記稿[4][5]
古城
蓑沢村の境町場に内東谷と云所にあり 天神あり 当地砂野土にて田多畑少 城南に丸沼あり 北に城沼あり 芦原あり 今は皆耕田となり — 武蔵志[34]

この他に江戸期の様子を伝える資料として宝暦3年(1753年)に作成されたと推測される『武陽羽生古城之図』があるが、歴史家の冨田勝治は「仮に(『新編武蔵風土記稿』や『武陽羽生古城之図』が執筆された時点で)遺構が残されていたとしても、それが羽生城全体の姿とはいえないだろう」としている[35]。かつて羽生の市街地を囲うように曼荼羅堀と呼ばれる堀が設けられていたといい、冨田はこれが羽生城の惣堀の役目を果たしていたものと推測している[36]

1971年(昭和46年)12月5日、記念物史跡)として羽生市の指定文化財となった[2]。ただし、城跡は住宅地や曙ブレーキ工業の工場敷地となっている[30][37]。沼地も昭和期には一部が残されていたが、平成に入った現在では完全に埋め立てられている[38]。天神曲輪の跡には古城天満宮が建立され、境内には城跡を示す石碑が建てられている[37]

アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 忠朝は木戸氏一族の出だが当初は河田谷氏の名跡を継ぎ、河田谷忠朝と名乗っており、木戸姓を名乗ったのは永享12年(1569年)9月以降のことである[3]
  2. ^ 元々、羽生領の小松神社に安置されていたが、天正元年(1573年)に後北条方に持ち去られたと伝えられている[7]
  3. ^ 木戸氏の旧臣。鷺坂道可、鷺坂軍蔵と名乗り、後に出家して不得道可と号したともいわれる[32]

出典

  1. ^ a b c 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、1993年、919-921頁。ISBN 4-582-49011-5 
  2. ^ a b 羽生市の指定文化財”. 羽生市 (2019年3月26日). 2021年3月14日閲覧。
  3. ^ 冨田 2010、92-93頁
  4. ^ a b c 蘆田伊人 編・校訂『新編武蔵風土記稿』 第10巻、雄山閣出版、1981年、287頁。ISBN 4-639-00021-9 
  5. ^ a b c 蘆田伊人 1929, p. 287.
  6. ^ 高鳥 2016、150頁
  7. ^ 冨田 2010、101頁
  8. ^ a b c d e f g h 平井聖 他 編『日本城郭大系 5 埼玉・東京』新人物往来社、1979年、186-189頁。ISBN 4-404-00976-3 
  9. ^ 羽生市 1971、168頁
  10. ^ 鷲宮町 1986、623-624頁
  11. ^ 戦国合戦史研究会 1989、187頁
  12. ^ 羽生市 1971、171頁
  13. ^ a b 羽生市 1971、172頁
  14. ^ 羽生市 1971、173頁
  15. ^ a b c 鷲宮町 1986、626頁
  16. ^ a b c 鷲宮町 1986、625頁
  17. ^ 鷲宮町 1986、628頁
  18. ^ a b 鷲宮町 1986、629頁
  19. ^ 行田市史編さん委員会 2012、377頁
  20. ^ 羽生市 1971、182頁
  21. ^ 行田市史編さん委員会 2012、386-387頁
  22. ^ 行田市史編さん委員会 2012、394-396頁
  23. ^ 行田市史編さん委員会 2012、402頁
  24. ^ 槙島昭武著、中丸和伯校注『改訂 関八州古戦録』新人物往来社、1976年、209頁。 
  25. ^ 井上鋭夫 校注『上杉史料集(中)』新人物往来社、1967年、56頁。 
  26. ^ 行田市史編さん委員会 2012、530頁
  27. ^ 冨田 2010、212頁
  28. ^ a b c 冨田 2010、204-205頁
  29. ^ 冨田 2010、206-207頁
  30. ^ a b c 中田正光『埼玉の古城址』有峰書店新社、1983年、275-278頁。ISBN 4-87045-222-7 
  31. ^ a b 藤原氏 道兼流 宇都宮支流 大久保」『寛政重修諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、795-797頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/406 
  32. ^ a b 高鳥 2016、160頁
  33. ^ a b 西野博道『歴史ロマン・埼玉の城址30選』埼玉新聞社、2005年、124-125頁。ISBN 4-87889-266-8 
  34. ^ 『新編埼玉県史 資料編10 近世1地誌』埼玉県、1980年、181頁。 
  35. ^ 冨田 2010、16頁
  36. ^ 冨田 2010、19頁
  37. ^ a b 高鳥 2016、146頁
  38. ^ 高鳥 2016、161頁

参考文献

  • 行田市史編さん委員会『行田市史 資料編 古代中世』行田市教育委員会、2012年。 
  • 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県』新人物往来社、1989年。ISBN 4-404-01642-5 
  • 高鳥邦仁『羽生・行田・加須 歴史周訪ヒストリア』まつやま書房、2016年。ISBN 978-4-89623-096-3 
  • 冨田勝治『羽生城と木戸氏』戎光祥出版、2010年。ISBN 978-4-86403-027-4 
  • 羽生市史編集委員会『羽生市史 上巻』羽生市、1971年。 
  • 鷲宮町史編さん委員会『鷲宮町史 通史 上巻』鷲宮町役場、1986年。 
  • 蘆田伊人 編「新編武蔵風土記稿 巻ノ213埼玉郡ノ15町場村」『大日本地誌大系』 第14巻風土記稿10、雄山閣、1929年8月。NDLJP:1214912/150 

関連項目

外部リンク