第三次中東戦争

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第三次中東戦争
Six Day War/June War

第三次中東戦争においてイスラエルが占領した領土
(肌色の部分)。白い丸の部分がチラン海峡。
戦争中東戦争
年月日1967年6月5日 - 6月10日
場所シナイ半島ガザ地区
ヨルダン川西岸ゴラン高原
結果
イスラエル軍の勝利
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル 主要交戦国
アラブ連合共和国の旗 アラブ連合共和国
アラブ連合共和国の旗 エジプト
シリアの旗 シリア
ヨルダンの旗 ヨルダン
イラクの旗 イラク
指導者・指揮官
レヴィ・エシュコル
首相
モシェ・ダヤン
国防相
イツハク・ラビン
参謀総長
モルデバイ・ホッド
空軍司令官
ダビット・エラザール
北部軍司令官
ウジ・ナルキス
中部軍司令官
イシャヤフ・ガビッシュ
南部軍司令官
ガマル・アブドゥル・ナセル
大統領
アブドゥル・ハキム・アメル
国防相
アブドゥル・ムキム・リヤド
ヨルダン軍最高司令官

シリアの旗 シリア
ヌレディン・アル=アタシ英語版
大統領
ヨルダンの旗 ヨルダン
フセイン1世
国王
戦力
イスラエルの旗 イスラエル
現役兵 5万人
予備役兵 21万4000人
作戦機 300機
戦車 800輌
アラブ連合共和国の旗 エジプト
24万人
シリアの旗 シリア
7万5000人
ヨルダンの旗 ヨルダン
5万5000人
損害
戦死 776~983人
負傷 4,517人
捕虜 15人
戦死 21,000
負傷 45,000
捕虜 6,000
航空機 400機以上(推定)
第三次中東戦争
Six Day War
航空戦
フォーカス作戦
シナイ半島方面(南部戦線)
ガザ - アブ・アゲイラ - ミトラ峠 - ギジ峠
ヨルダン川西岸方面(中部戦線)
エルサレム - 弾薬の丘 - オーガスタ・ヴィクトリア
ゴラン高原方面(北部戦線)
ゴラン高原の戦い

中東戦争の全体については、中東戦争を参照

第三次中東戦争(だいさんじちゅうとうせんそう、各国の名称は下部を参照)は、1967年6月イスラエルエジプトシリアヨルダンをはじめとする中東アラブ諸国の間で発生した戦争である。中東戦争の一つ。

概要

史上3度目の中東戦争である。1956年第二次中東戦争以降対イスラエル・アラブ情勢は比較的安定していたが、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された1964年ごろからイスラエル北部のヨルダン川周辺で武力衝突が発生するなど、次第に緊張が高まりつつあった。1967年5月にはエジプトシナイ半島に地上部隊を進出させ、さらにエジプトの要求により第一次国際連合緊急軍が撤退、チラン海峡も閉鎖するなど「イスラエルの抹殺」、すなわち戦争の動きを見せるようになり、イスラエルも動員令を発令、国防相にモシェ・ダヤンを就任させるなど、戦備を整えた。

こうした中1967年6月5日朝、イスラエル空軍がアラブ各国の空軍基地に空襲を行い、アラブ各国の空軍に壊滅的被害を与えたうえで攻撃を開始した。アラブ側はイスラエル軍の前にほとんど抵抗できずに敗走を重ね、6日間で戦闘は終結、イスラエルはエジプトからシナイ半島、ガザ地区を、ヨルダンから東エルサレムを含むヨルダン川西岸を、シリアからゴラン高原を占領した。

この戦争でイスラエルはほぼ一方的な勝利を収めたが、このためにアラブ側の戦争能力を軽視することとなり、1973年第四次中東戦争の緒戦でアラブ側に敗北を喫することになったといわれている。戦争前に比べて国際的信用も低下し、かつての支援国イギリスフランスからは兵器の共同開発や輸出を断られている。またヨルダン川西岸から周辺国(主にヨルダン)へ亡命した人々も多く、結果としてパレスチナ難民は増加した。この戦争を受けて国際連合安全保障理事会が決議した国際連合安全保障理事会決議242は中東問題の平和的解決をめざした基本的条文であるといわれる。2015年現在もイスラエルはガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領し、自国領であると主張しているが、国際的には受け入れられていない。

なお、本戦争は6日間で終結したことから「世界一短い戦争」と呼ばれることがあるが、実際の世界最短の戦争は1896年イギリス・ザンジバル戦争(40分間)である。

名称

本戦争の名称について、イスラエルでは「六日戦争」(ヘブライ語: מלחמת ששת הימים‎,Milhemet Sheshet a Yamim,Six Day War)、
アラブ側では「六月戦争」(アラビア語: النكسة‎,an-Naksah,June War)
あるいは「1967年の惨敗」(アラビア語: حرب ۱۹٦۷‎,Ḥarb 1967,The Setback in 1967)と呼んでいる。
欧米では「六日戦争」の名称が広く使われているが、「1967年アラブ・イスラエル戦争」(1967 Arab-Israeli War)と呼ぶこともある。
日本では上に挙げた名前を使うこともあるが、「第三次中東戦争」と呼ぶことが多い。本記事でもこの名称を使うこととする。

背景

第一次中東戦争によってパレスチナの大部分はイスラエルが獲得していたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地とみなされているエルサレムの旧市街を含めた東エルサレムヨルダンが支配していたため、エルサレム旧市街における嘆きの壁においてユダヤ教の祈りを捧げることが不可能であったため、正統派ユダヤ教徒を中心に不満が高まっていた。

一方アラブ側では、1964年にヨルダンのアンマンを本部としたパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルに対するゲリラ闘争を行っていた。1966年2月、シリアクーデターが発生し、PLO支持のアターシー政権が樹立すると、国内の混乱も収まらないうちにゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を加え始めた。イスラエルは住民保護を理由として、7月に空軍を派遣してシリア軍と交戦した。シリア空軍機を撃墜して砲撃陣地を破壊、さらに示威行為として、首都ダマスカス上空を飛び回った。

当時、アラブ側にはソビエト連邦から兵器を購入していた関係でKGBの要員も入っていた。また、ソビエト連邦は、中東でアメリカ合衆国に対して有利な立場を得ようと中東で戦争を起こそうと画策していた。そこで、イスラエルとシリアが即時に開戦する意思も態勢もなかったにもかかわらず、KGBはエジプト政府に両国が開戦するとの情報を知らせた。またシリア政府に対しては、イスラエルがシリアへ侵攻準備を開始したと報告した。このため両国は開戦に備えて国境沿いを軍で固めた。ヨルダンも1967年4月にエジプトと共同防衛条約を結び、イスラエルの侵攻に備えた。

一方、イスラエルは諜報特務庁(モサッド)の諜報活動によってアラブ側の情勢は絶えず知らされていた。イスラエルはKGBの行動とアラブ3国の緊張を根拠としてアメリカ合衆国に仲裁を求めたが、CIAはアラブ諸国の侵攻はないと判断しており、また当時の米国はベトナム戦争を戦っていたため、中東でイスラエルを支援する余裕がなかったために応じなかった。1967年5月16日には、エジプトがシナイ半島での停戦監視を受託していた国連緊急軍(UNEF)を撤退させるなど、情勢は緊迫化した。当時のイスラエルはすべての周辺国は国交がない敵国であったため、国家消滅の危機感を抱いていたイスラエルはアラブ諸国に侵攻される前の先制攻撃を決意し、開戦の準備を行った。KGBはこの情報を入手したが、アラブ側には伝達しなかった。

開戦

1967年6月5日イスラエル空軍機が超低空飛行でエジプトシリアヨルダンイラク領空を侵犯、各国の空軍基地を奇襲攻撃して計410機にも上る航空機を破壊した。この「レッド・シート作戦」によって制空権を奪ったイスラエルは地上軍を侵攻させ、短期間のうちにヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区シナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領した。

ヨルダンとエジプトは6月8日停戦、シリアも6月10日停戦した。延べ6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上までに拡大した。

消耗戦争

一応の停戦には至ったが、アラブ諸国も領土を喪失したままでいられるはずも無く、すぐに紛争が勃発した。ヨルダンは聖地東エルサレムを奪われ、国家の威信が揺らいだ。そこで停戦から半年後にPLOを支援してヨルダン川西岸を攻撃したが、失地回復には至らなかった。

エジプトはスエズ運河を挟んでイスラエルと対峙したが、1968年からエジプト軍が散発的な砲撃を加えるようになり、消耗戦争と呼ばれる砲撃の報復合戦となった。この砲撃戦によってスエズ運河は実質的に通航不可能になった。

消耗戦争は断続的に2年間続いたが、1970年6月、イスラエル軍がスエズ運河を越えてエジプト軍を攻撃し、砲撃陣地を破壊して占領した。1ヶ月以上の占領の末、8月に両国は停戦した。

停戦後

この1970年はアラブの転換点となる重要な年となった。PFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけに9月にはヨルダンがPLOを攻撃する内戦が発生、ヨルダンは非難されて孤立し、PLOはレバノンに逃れ、後のレバノン内戦の引き金となる。内戦の直後、エジプト革命の立役者ナセルが死去、サダトが大統領となった。彼はイスラエルとの講和を目指す一方で、シナイ回復などの有利な条件で講和を果たすために再度のイスラエルへの軍事行動を画策、空軍司令ムバーラク主導の空軍再建や、イスラエル自慢の機甲部隊を打ち破るためのソ連からの対戦車ミサイルを中心とする対戦車戦術の導入などを推し進めた。

一方、圧倒的勝利を収めたイスラエル側ではアラブに対する油断が生じ、モサッドによる動向情報への反応も鈍くなっていた。さらに奇襲による国際社会の信用低下に加え、中東のパワーバランスが崩れる事を危惧したイギリスフランスはアラブ寄りの政策に転換し、イスラエルへの武器輸出停止などの措置を取った。こうした情勢の変化が、続く第四次中東戦争緒戦における大損害へと繋がる事となる。

国際社会の対応

アメリカ始め欧米諸国はイスラエル支持、ソビエト連邦はアラブ支持の立場を取った。米ソは協議を行い、イスラエル軍の撤退と、アラブ側にイスラエルを承認させる妥協案をまとめた。しかし、国際連合総会への提出を前に、アラブ側が妥協案を不服としたため決議は行われなかった。こうした諸外国の対応の遅れもあり、イスラエルは占領の既成事実化を進めていった。

しかし、消耗戦争による戦争の再燃で、再度米ソに加えイギリスが調停に加わり、イスラエル寄りの米国案に、アラブ寄りのインド案を加味した形で協議を行った。その結果11月22日国際連合安全保障理事会はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決した。決議では同時に国際水路の自由通行権の保障、パレスチナ難民問題の公正な解決、イスラエルを含む全ての当事国の生存権の承認を確認した。

決議はイスラエルの占領を無効とする一方、撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかった。一方、イスラエルの独立が確認されており、イスラエルにとって有利な内容と言えた。その結果、イスラエルは決議を無視し、占領地の支配を続けた。また、アラブ側当事国(エジプト、ヨルダン、シリア)もイスラエルの承認を拒んだ(1970年、アメリカの要請に従いエジプトが応じるとヨルダンも従ったが、シリアは拒否を続けた)。しかし本決議は現在でも有効であり、1973年第四次中東戦争時の安保理決議338では、安保理決議242に基づく停戦が確認され、シリアも受け入れた。1980年には安保理決議465で、重ねてイスラエルによる占領の無効を決議した[1]。従って、第三次中東戦争以降のイスラエル占領地は[2]、原則としてイスラエルの支配は公認されていない。

第四次中東戦争後の1979年、イスラエルはエジプトと単独講和を結んだため、エジプトから占領したシナイ半島については返還したが、残りの占領地は実効支配を続けた。その後、1993年オスロ合意で、占領地(シリアから占領したゴラン高原などを除く)をパレスチナ自治区として独立を認めることになったが、イスラエルはパレスチナ自治区の各地で入植地を築いて支配の永続化を図っており、対立は続いている(パレスチナ・イスラエル問題)。

アラブ側捕虜処刑事件

第3次中東戦争中、イスラエル国防軍により、エジプト兵捕虜やパレスチナ人義勇兵が処刑されたとされている。実際、戦争に参加した退役軍人が49人のエジプト兵捕虜の違法処刑を認めたとされる。また、当時従軍していた兵士も投降したエジプト兵がイスラエル兵に射殺されているのを目撃。また、イスラエル人記者も、5人のエジプト兵が穴を掘ることを強制された上にその場で殺害され、埋められたのを見たと語っている。これらの話がイスラエル・メディアを騒せ、ドキュメンタリー番組も制作されている。

2007年3月5日、エジプト外務省が「第3次中東戦争中に当時、イスラエル軍を指揮していたベンエリエゼル国土基盤相がエジプト兵捕虜250人を処刑した」と非難した。非難の根拠はイスラエルのテレビ局が放送した番組だが、番組制作者のRan Ederlist氏は「内容はエジプト兵の処刑ではなく、エジプト軍傘下のパレスチナ人部隊がイスラエル兵に殺害された事件のドキュメンタリー番組であり、番組内容が歪曲されている」と否定する声明を出している。

関連項目

外部リンク

  1. ^ (2) アラブ占領地におけるイスラエル入植地に関する国連安全保障理事会決議465(仮訳) (1980年3月1日,ニューヨーク) - 外務省
  2. ^ 逆に言えば、第一次中東戦争での占領地はそのままイスラエル領土として認められたことになる。