嘆きの壁

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嘆きの壁

嘆きの壁(なげきのかべ、英語: Western Wall, アラビア語: حائط البراق‎, ヘブライ語: הכותל המערבי‎)は、エルサレム神殿のいわゆるヘロデ神殿の外壁の一部。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった。

目次

[編集] 概要

訪れた人々が壁に触れて祈りをささげるため、人の背の高さの壁部分が黒ずんでいる

紀元前20年ヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。

[編集] 名称について

古いユダヤの書物の中に「神殿の西壁(western wall of the Temple)」との言及がある。しかしこの記述が「嘆きの壁」を指すのか、それとも神殿群の別の壁を指すのかは不明である。現在の「嘆きの壁」に関するものとして最も古い記述は、11世紀の詩人en:Ahimaaz ben Paltielによるものとされる。現在広く使われているWailing Wallの名称は1917年にイギリス人によってつけられたとされ[1] 、これは19世紀のヨーロッパの旅行者が、この壁を「ユダヤ人が嘆く場所」(英語:wailing place of the Jews, フランス語:Mur des Lamentations, ドイツ語:Klagemauer)と呼んだことに由来する[2][3] 。なお、「嘆きの壁」の単語自体は古くからのアラビア語el-Mabka(「涙の場所」の意)の直訳である[4] 。「嘆き」とは、神殿の破壊を嘆き悲しむために、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現している。なおイスラム教の預言者ムハンマドが、彼を乗せて天に昇った動物「ブラーク」をこの壁につないでおいたという伝説があり、1920年代に壁の所属をめぐってアラブ人とユダヤ人の間の緊張が高まった際、アラブ人はこの壁をal-Buraqと呼んだ。[1]

[編集] 歴史

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嘆きの壁の歴史は、紀元20年頃ヘロデ大王が改築した神殿の西壁として始まる。

70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った。

バル・コクバの乱により、ユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止されていたが、ミラノ勅令により4世紀以降、1年に1日の立ち入りが許可されるようになる(詳細不明)。

1967年第三次中東戦争以降、ユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りが許されるようになる。

[編集] 広場の最近の損害

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[編集] 関連項目

[編集] 参照

  1. ^ a b Halkin, Hillel (January 12, 2001). "“Western Wall” or “Wailing Wall”?". en:Jewish Virtual Library. 2008-10-05 閲覧。
  2. ^ Barclay, James Turner (1858). “Modern Jerusalem”, City of the Great King. Challen, g.493. 
  3. ^ Warner, Charles Dudley (1878). “Jerusalem”, In the Levant. Houghton, g.45. 
  4. ^ Becher, Mordechai (2005). “The Land of Israel”, Gateway to Judaism. en:Mesorah Publications, g.265. ISBN 1422600300. 

[編集] 外部リンク

[編集] ライブカメラ・動画・写真

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世界測地系31°46′36″N, 35°14′3″E