竹元勝雄
基本情報 | |
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出身地 | 日本 山口県 徳山市 (現:周南市) |
生年月日 | 1926年7月15日 |
没年月日 | 2006年5月8日(79歳没) |
身長 体重 |
170 cm 62 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1951年4月22日 |
最終出場 | 1951年4月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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竹元 勝雄(たけもと かつお、1926年7月15日 - 2006年5月8日)は、山口県徳山市(現在は新設合併により周南市)生まれの元プロ野球選手・プロ野球審判員。
来歴・人物
山口県立徳山中学校在学時から投手。戦後社会人の藤山炭鉱に在籍した。1950年2月大阪タイガースにテスト入団。1951年に一軍登録されたが4月22日の大洋ホエールズ戦に敗戦処理として登板しただけでわずか1年で引退。
引退後は社会人の篠崎倉庫に在籍していたが1954年にセントラル・リーグが造った新日本リーグの審判となりこれを機に審判として再出発。1955年のシーズン途中に新日本リーグが解体され、関東の球団がセントラル・リーグが管理するイースタン・リーグに、愛知以西の球団がパシフィック・リーグが管理するウエスタン・リーグに転籍するとセントラル・リーグの関西審判部に入局(※ 入局は1956年)。1983年1月に退局するまで通算2819試合に出場し、それまでにアウトサイドプロテクターを使用した。
日本シリーズに7回、オールスターゲームには9回出場している。審判としては長嶋茂雄がホームランを打ちながら一塁ベースを踏み忘れたためアピールアウトになった際の一塁塁審。[1]広島東洋カープ初の外国人監督ジョー・ルーツを退場させた審判として有名。また、1966年には広島のファンにビンを投げつけられて目の下を負傷した事で知られている。
2006年5月8日死去。享年79。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1951 | 阪神 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 13 | 2.2 | 4 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 6.00 | 1.88 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 13 | 2.2 | 4 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 6.00 | 1.88 |
背番号
- 45 (1950年 - 1951年)
関連項目
出典
- ^ “【9月19日】1958年(昭33) ミスター、幻の28号本塁打でトリプルスリーを逃す”. スポーツニッポン (2007年9月19日). 2012年9月8日閲覧。