皇別

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皇別(こうべつ)もしくは王孫(おうそん)とは、王家帝家、とりわけ日本皇室の一門の中で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指す言葉である。皇室同様男子血統でつながらなければならない。皇別とは弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇皇子の子孫)・神別天津神・国津神の子孫)・諸蕃朝鮮半島中国大陸その他から渡来した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ用語である。江戸時代以降は王孫という呼び名も用いられた。

概要

皇別・王孫は天皇が大王であった古代から存在し、財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の皇族や、天皇の子供でも側室や愛妾の子供であるものにを与える形で誕生した。彼らは皇族に準ずる存在として高い尊敬を受けたが、やがて藤原家外戚政治が確立していく中、2・3代ほどで没落する例がほとんどになった。

皇別氏族の中には地方で武士の棟梁として活躍するものもおり、桓武平氏清和源氏はその代表例である。9世紀には桓武天皇の 5世孫である桓武平氏の平将門が新皇として短い間ではあったが関東に君臨した。また日本で最初に政権を取った武家は、桓武平氏の平清盛であるとされている。清和源氏は源頼朝が平氏本家を打ち破った後鎌倉幕府を開き(鎌倉幕府)、3代にわたって東日本を統治した結果、武家の盟主として広く認められるようになった。後に源氏の分家である足利家室町幕府を開き、武士の勢力の伸張と天皇の権威・権力の衰退にも助けられ、15代240年にわたり征夷大将軍として日本に君臨し、外交、内政、軍事を差配した。

また公家の間にも引き続いて皇室から高位の公家に養子に入る形での皇族の血を引くが家系もある。すなわち近衛信尋以降の近衛家一条昭良以降の一条家鷹司輔平以降の鷹司家の3家であり、これらの分家の内男子血統で続いているものや、これらの家から養子を迎えた後男系で続いている家は皇別摂家と呼ばれることもあるが、明治時代の華族の類[1]ではいずれも神別(藤原氏後裔)として扱われている[2]

皇室の庶家としてその家系は価値を有しており、歴史上皇別・王孫の氏族の出であると偽ったものも少なくない。たとえば滋野氏は、貞保親王の裔を称しており、華族の類でもそう扱われているが、滋野氏の系統には諸説が有る。しかし皇別でも有力でない氏族は藤原氏など著名な神別姓を称することもある。

また旧皇族も定義に従えば皇別・王孫であるが、あまりそのようには呼ばれない。

著名な皇別氏族

著名な皇別・王孫出身を称する氏族を記す。括弧内はカバネ

飛鳥時代以前

奈良時代

平安時代以降

脚注

  1. ^ 華族の結束を高めるため、祖先を同じとする家がそれぞれ系統立てられた制度。
  2. ^ 鷹司、一条、近衛はいずれも四十二類、藤原忠通裔として記載されている。

参考文献

  • 柴山典 編『華族類別譜. 上巻 皇別』屏山書屋、1880年。NDLJP:780644 

関連項目