畝傍 (防護巡洋艦)

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艦歴
発注 1883年度計画
起工 1884年5月27日
進水 1886年4月6日
就役 1886年10月18日
その後 1886年12月3日 シンガポール出港後行方不明
除籍 1887年10月19日 認定
性能諸元
排水量 常備:3,615トン
全長 98.0m
全幅 13.1m
吃水 5.7m
機関 石炭専燃円罐9基
+直立型二段膨張式二気筒レシプロ蒸気機関2基2軸推進
5,500hp
石炭700トン
最大速力 18.5ノット(機関航行時)
乗員 280~400名
兵装 35口径24cm単装砲4門
35口径15cm単装砲7門
5.7cm単装砲2門
ノルデンフェルト式25mm4連装機砲10基
ノルデンフェルト式11mm10連装機銃4基
35.6cm水上魚雷発射管4門
装甲 甲板傾斜部:62mm
上部装甲帯:125mm
バーベット、砲塔、ケースメイト:150mm

畝傍(うねび)は、南シナ海で忽然と姿を消してしまった大日本帝国海軍防護巡洋艦である。艦名は奈良県畝傍山より名づけられた。正式な艦名は「畝傍艦」である。

概要

フランスで完成後にル・アーヴルで撮られた「畝傍」。

来る対清戦争に備えて、海軍卿川村純義により出された軍艦船増強の建議により購入された、大甲鉄艦3隻のうちの1隻(他の2隻はイギリス製の浪速高千穂)。外見はやや旧式な、3檣バーク型機帆船だが、防護甲板を主防御とした、れっきとした防護巡洋艦である。機関航行時の最大速力は18.5ノット。甲板上に24センチ砲4門、15センチ砲7門、35.6センチ水上魚雷発射管4門を備える。1884年明治17年)、価格153万円でフランスの「フォルジュ・エ・シャンティエ・ドゥ・ラ・メディテラネ」(地中海鉄工造船所の意)のル・アーヴル造船所に発注された。

畝傍は1886年(明治19年)10月19日に、フランス人艦長ルフェーブルの指揮下、北フランスのル・アーヴルから日本へ向けて出港した。飯牟礼俊位海軍大尉以下日本海軍将兵(日本側回航員)、駐日フランス人の家族を乗せ、造船所雇用のフランス人乗員70数名の手によって回航中、12月に寄港地シンガポールを出港後、南シナ海洋上で行方不明となる。消息を知る手がかりは全くなく、謎の消失となった。全乗客乗員計90名の消息は未だ不明である。

日本は軍艦の回航に保険をかけており、124万5千3百円の保険金が下りたので、畝傍の代艦として防護巡洋艦 「千代田」をイギリスに発注した。

また、日本は畝傍の建造費の残額を払う必要が無くなったが、フランスは残額を回収する為、水雷砲艦千島」を建造した。しかし「千島」も回航中に遭難してしまった(千島艦事件)。

なお、畝傍の名は当艦が初代であるが、この亡失により縁起が悪い名前であると言われるようになり、後の艦に継承されなかったため1代限りの名称となった。

消息不明の原因に関する諸説

復原性能に難のあるタンブル・ホームを採用し、三本マストに加え、日本側の意向により過大な武装を搭載したため、トップ・ヘビーで復原力が不足しており、南シナ海で設計の想定外である台風に遭遇して転覆沈没したという見方が有力である。また台風でなくとも、急に舵を切ると艦が大きく傾斜し、そこに横波を受けると復原力不足から一瞬で転覆する危険性もあった。

1954年昭和29年)5月に、やはり南シナ海で、弱い熱帯低気圧から急激に強い勢力に発達した台風3号に巻き込まれた辰和丸が遭難し、大規模な捜索にもかかわらず漂流物の類は全く発見されなかった事実がある。南シナ海など低緯度の洋上では冬季でもしばしば台風の発生がある事、当時の気象観測体制は極めて未発達で、陸地から遠く離れた台風の多くは探知されずに終わった事などから、畝傍の喪失も同様のものであった可能性は充分考えられる。

喪失当時、台風で沈没したとしても普通は何らかの漂流物が見つかるものであると考えられていたが、何も見つからなかったため、清国に奪われた、海賊に捕獲されそのまま海賊船になった、生きのびた西郷隆盛が乗船して帰国してくるなど、様々な流言が飛び交った。中にはこっそり後をつけてきたロシア海軍に捕獲されたというものまであり、この噂は日露戦争の際に「捕獲された畝傍がバルチック艦隊の一員として日本に襲来する」と言われるまでになったと伝わる。

青山霊園『畝傍の森』。畝傍の記念碑(左)と千島 (通報艦)の砲身。

関連項目

参考図書

  • 「世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史」(海人社)

外部リンク