田丸稲之衛門

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田丸稲之衛門(たまるいなのえもん、文化2年(1805年) - 慶應元年2月4日1865年3月1日))は、幕末期の志士水戸藩士。村上源氏の名門中院家の流れで北畠氏の支流田丸氏(以下の段で詳述)。は直允。幼名は丑次郎、安之允。仮名は稲之衛門。家系村上源氏の名門 北畠氏の庶流である(以下に詳述する)。実父は山国共綿、母は田丸直諒の娘。外祖父である田丸直諒の養子となった。兄に山国喜八郎共昌がいる。水戸天狗党の乱において天狗党の首領として各地を転戦。越前国敦賀にて斬死した。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。また靖国神社に合祀される。位階贈従四位[1]

家系

田丸氏村上源氏の名門北畠氏の庶流である。田丸氏は、戦国時代初期の伊勢守護・北畠政郷の四男・顕晴が度合郡田丸城に入り、田丸の苗字を称したことにはじまる。以降、田丸氏は初代田丸顕晴以下、歴代当主により田丸御所の尊称が継承され、北畠氏の一門の三大将として重きをなした。

しかし、顕晴は伊勢国の国人・関氏との戦いの最中、家臣である池山氏の謀叛に倒れ、家督はその子、田丸具忠が継承した。やがて、田丸具忠が老齢で隠居すると、その子・田丸直昌が家督と田丸城を継承した。直昌は織田信長の子の織田信雄の家臣となり、旧主であり一族でもある北畠氏一門の暗殺を命ぜられ、田丸城にて旧主一族を殺害した。やがて、直昌は羽柴秀吉の傘下となり、その重臣・蒲生氏郷の姉婿であることから、蒲生氏の家臣となる。蒲生氏が陸奥国会津に90万石を与えられると、直昌は3万石を与えられ須賀川城主となった。

その後、直昌は葛西大崎一揆九戸政実の乱に出陣し、戦功により5万2000石に加増となり、森山城主に転じた。主君氏郷が死去するとその子の蒲生秀行に従い、秀行が宇都宮城18万石に転封となると、直昌は信濃国川中島城主に封ぜられた。その後、徳川家康の命で美濃国岩村城に移り、4万石の封を得た。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に参陣し、西軍が敗れると敗将として越後国に流された。田丸直昌は出家したものの、その長男・田丸直茂は赦免され、蒲生家に帰参した。しかし、蒲生氏が断絶すると、浪人して加賀藩前田氏に仕えた後、江戸幕府の旗本となった。また、直昌の次男に直綱という人物がおり、その三男 直次の女が水戸藩士に嫁いだとされる。直次の女が嫁ぎ先で生んだ子直行が、田丸姓を冒して、水戸藩士・田丸家が成立した。以降、田丸家は直行、直暢、直諒と続き、稲之衛門直允を養子とした。

生涯

田丸稲之衛門は天保6年(1835年)、水戸藩馬廻組となり、同10年(1839年)、藩領検地のため、縄奉行となる。これを機に藩政改革の勢力と懇意となった。同11年(1840年)、進物番、翌12年(1841年)に大番組となり、13年(1842年)には田丸家の家督を相続し、200石となる。弘化2年(1845年)、使番を兼務し、嘉永2年(1849年)11月に書院番組頭となり、安政6年(1859年)に水戸藩目付となる。安政7年(1860年)1月、使番に転じた。順調に出世海道を歩むも、兄・山国共昌の影響もあり、尊皇攘夷派に組するようになっていった。文久3年(1863年)には町奉行となったが、尊皇攘夷派の重鎮として信頼を集めるようになり、尊皇攘夷派が筑波山に挙兵すると、尊王派の将の一人として招かれた。これに、水戸藩親幕府勢力である諸生党が討伐の兵を挙げると、天狗党の乱が勃発し、稲之衛門ら天狗党はこれに応戦した。戦況は藩内全域に及んだが、幕府軍が尊皇攘夷派を賊軍とみなし、水戸藩諸生党と連合して天狗党鎮圧に乗り出すと、天狗党の主力部隊は降参した。しかし、武田耕雲斎や田丸稲之衛門らの一隊はその後も尊皇の志を達すべく、京都への上洛を目指して転戦していった。下野国、陸奥国へと移動し、幕府から天狗党討伐を命ぜられた各藩と戦火を交えることとなった。しかし、天狗党の武力に真っ向から挑むだけの兵力がない藩も多く、領内の移動を黙認されたり、金銭により藩地の通交を遠慮するなどのこともあったため、天狗党は比較的容易に異動することができた。しかし、上野国から美濃国にかけて、高崎藩諏訪藩松本藩大垣藩譜代大名の兵力と戦火を交え、やがて天狗党は北上し、北陸道から京都に向かうこととなった。やがて越前国に至ると、大遠征の中で天狗党も疲弊し、かつ越前藩加賀藩らの大藩に対するだけの武力もなくなっていたこと、加賀藩が天狗党に同情的であったこともあり、武田、稲之衛門ら一党は加賀藩に降伏することとなった。慶應元年(1865年)2月4日、幕命により稲之衛門は賊将として敦賀の地で斬刑となる。享年61。しかし、その後、薩長を中心に明治維新が起きると、尊皇派であった田丸の功績が認められ、明治期に従四位が贈位された。

家族

脚注

  1. ^ a b c d e 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)335頁参照。
  2. ^ a b 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)336頁参照。

参照文献

  • 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353

関連項目