王毅
王毅 | |
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プロフィール | |
出生: | 1953年 |
出身地: | 中国北京市 |
職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 王毅 |
簡体字: | 王毅 |
拼音: | Wáng Yì |
和名表記: | おう き |
発音転記: | ワン イー |
王毅(おう き)は、中華人民共和国の外交官、政治家。前中国外交部副部長、中国共産党第17期中央委員、元駐日本特命全権大使。立命館大学第35号名誉博士。
日本語、英語に堪能で、日本では会見や講演をしばしば日本語で行う。
略歴
北京出身。黒龍江省に8年間下放された後に北京第二外語学院で日本語を学び、1982年中華人民共和国外交部に入省。1983年の胡耀邦総書記訪日の際に執筆したスピーチが評価される。日本課長、日本大使館参事官、アジア局副局長、同局長。日本語のプロとして知られたが、この頃から英語の勉強を始め、1997年8月から半年間、局長の身分のままジョージタウン大学に留学している。
1998年に部長助理(外務大臣次官補)を歴任。助理時代には旧日本軍遺棄化学兵器に関する日本との交渉にあたり、1999年7月30日両国の覚書に調印。
2001年3月からアジア担当副部長(外務次官)。六者会合での中国代表となり訪米、訪朝。2003年8月27日から北京で開催された第1回六者会合のホストとして議長役を務める。2004年9月から2007年9月21日まで駐日本大使を務めた。なおこの間李肇星の後任外交部長となる可能性が取りざたされたこともあるが、実現しなかった。帰国後は外交部の政策研究担当の常務副部長に就任、2007年10月には党中央委員に選出された。
2008年6月3日中国共産党中央台湾工作弁公室と国務院台湾事務弁公室主任に任命された。同ポストは台湾を国内とみなすため地方トップが就任するのが慣例で、今回も盧展工福建省党委書記の起用が考えられていた。外交官出身の王毅が選ばれた背景には、台湾との対話が停滞する状態を好転させたいという見方[1]がある一方、知日派の李登輝が総統就任した以降急接近した日台関係を牽制するのが目的という見方[2]もある。
指導部が交代する2012年の党大会において、外交の事実上のトップである国務委員への就任が有力視されている。
駐日大使就任後の主な発言
- 2004年12月21日 「トラブルメーカーが戦争メーカーになるかもしれない」―李登輝への観光ビザ発給に関して。
- 2005年4月27日 「かつて政府の顔である首相、官房長官、外相の3人は在任中に参拝しないという紳士協定があった」―1985年の中曽根康弘元首相の公式参拝後に取り交わされたと主張。後に個人的な友人であった胡耀邦(当時総書記)を窮地に追い込まないため(中曽根は「政争の具に使われないため」と表現したと言われる)、在任中は参拝しないことになったと明らかになる。中曽根自身は「大使の記憶違い」と否定している。
- 2005年5月11日 「戦後日本の平和主義は中国の教科書にも書いてあるし、中国人も知っている」―中国の歴史教科書に戦後の日本についてほとんど記述が無いと指摘されて。
- 2006年1月29日 「それは本当にうわさだ」―前年末から秘密裏に帰国し、帰国中に日中関係の冷え込みから対日政策の見直しについて問われ。外交筋では重病、更迭などが噂されていた。
- 2006年8月3日 「隣人の嫌がることを控えることが東洋人の伝統」―「第2回 東京-北京フォーラム」での全体会議の挨拶にて、安倍晋三内閣官房長官(当時)の同挨拶の直後の発言。8月15日の終戦の日の小泉純一郎首相の靖国神社への参拝を牽制。
- 2008年6月23日 「中国と台湾の平和統一は日本にとっても利益になる。こうした共通認識が日本国内でできていないことは残念だ」「日本側にはシーレーンや安全保障などの面で困るという判断があるかもしれないが、大局に立って見守ってほしい」―尖閣諸島沖で日本の巡視船と接触した台湾の遊漁船が沈没した事故に中台で対日抗議の世論が沸騰した後、訪中した日本の国会議員との北京市内で会談での発言。[3]
脚注
- ^ 共同通信 2008年6月3日「王毅氏が台湾弁公室主任に 中台関係改善で起用」
- ^ 産経新聞 2008年5月31日「王毅前駐日大使を台湾担当に起用 中国“異例”人事 日本の接近牽制」
- ^ 産経新聞 2008年6月24日「台湾統一は「日本に利益」」
関連項目
中華人民共和国
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