洲本城
洲本城 (兵庫県) | |
---|---|
模擬天守 | |
別名 | 三熊城 |
城郭構造 | 山城、平城 |
天守構造 | 連結式(非現存) |
築城主 | 安宅治興 |
築城年 | 室町時代後期 |
主な改修者 |
脇坂氏(山城) 蜂須賀氏(平城) |
主な城主 |
安宅氏、仙石氏、脇坂氏、 藤堂氏、池田氏、蜂須賀氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣、天守台、堀 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 模擬天守 |
位置 | 北緯34度20分15.73秒 東経134度54分10.35秒 / 北緯34.3377028度 東経134.9028750度 |
洲本城(すもとじょう)は、淡路国津名郡、現在の兵庫県洲本市にある城。別名三熊城。国の史跡に指定されている。
沿革
1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。治興の後は養子安宅冬康(三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ、1581年(天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州攻めの際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。
江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。これは関ヶ原の戦い以降も、豊臣方大名の動きを牽制するために、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘と大坂湾一帯を防衛させるためとされる。
大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。 現在は曲輪、池、石段、石垣、櫓跡などが残る。
現在ある模擬天守は、1928年(昭和3年)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のものである。
「由良引け」以降に築かれ、明治まで続いた「下の城」とは史跡としては全く別の時代のものと考えられ、「上の城」と分類 されている。
上の城は1999年(平成11年)1月14日、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定されている。 下の城の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化史料館などがある。
近年、石垣のライトアップや周辺の樹木の伐採を行うなど整備が行われているが、2011年(平成23年)3月はじめに模擬天守の壁面にひび割れが見つかり、補修工事を行うことになったため模擬天守への立ち入りは禁止されている[1]。
-
三熊山(山城)と平城(洲本市立淡路文化史料館)
-
櫓台跡
概要
- 城郭遺構地域面積 - 278,459.9 m²
- 所在地
- 山上 - 〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷(三熊山)
- 山下 - 〒656-0024 兵庫県洲本市山手一丁目
現存建物
下の城の迎賓館として建てられた金天閣が、明治初めには、淡路高等女学校(現在の兵庫県立洲本高等学校)に移築されて作法室として使用され、 その後洲本八幡神社境内に移築されている。(兵庫県指定文化財 建造物)
交通アクセス
- 高速バス・洲本バスセンター行き終点下車、徒歩約60分(上の城)、徒歩約20分(下の城)
- 洲本バスセンターから淡路交通・由良線 「由良福祉センター」行き路線バスで「公園前」下車(下の城)、徒歩約40分(上の城)
出典
- ^ “洲本城天守閣にひび 市が補修工事へ”. 神戸新聞 (2011年3月17日). 2011年3月22日閲覧。