江頭豊

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えがしら ゆたか

江頭 豊
生誕 1908年1月16日
大日本帝国の旗 大日本帝国東京府
死没 (2006-09-24) 2006年9月24日(98歳没)
日本の旗 日本静岡県富士市
出身校 東京帝国大学法科
職業 実業家
著名な実績 水俣病問題の対応
肩書き チッソ株式会社社長
任期 1964年12月 - 1971年7月
前任者 吉岡喜一
後任者 嶋田賢一
配偶者 寿々子
子供 優美子(娘)
江頭安太郎(父)
江頭米子(母)
親戚 雅子(孫)
江藤淳(甥)
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江頭 豊(えがしら ゆたか、1908年明治41年)1月16日 - 2006年平成18年)9月24日[1])は、日本実業家チッソ株式会社社長(1964年12月 - 1971年7月)として水俣病問題の対応にあたった。皇太子徳仁親王妃雅子の母方の祖父学位法学士(東京帝国大学)。

経歴

東京府出身[1]。父は海軍軍人江頭安太郎、母は米子。

海城中学旧制松本高校を経て、1933年昭和8年)東京帝国大学法科を卒業後、日本興業銀行へ入行[2]1962年(昭和37年)日本興業銀行退職[3]

1964年(昭和39年)新日本窒素肥料専務取締役に就任[3][4]。12月取締役社長に就任[3]1971年(昭和46年)7月、チッソ社長を退任し、会長に就任[5]1973年(昭和48年)5月、チッソ会長を退任し、相談役に就任[5]

2004年10月から妻・寿々子と共に静岡県富士市病院に入院(同年11月に妻が死去)。2006年9月24日、病院で死去。98歳没[6]

人物像

・優美子が外務省勤務の小和田恆に嫁いだ。恆と優美子の長女である雅子は1993年(平成5年)、皇太子徳仁親王結婚し、皇太子妃となった。

家族・親族

江頭家

佐賀県佐賀市東京都
江頭姓は「えがしら」のほかに「えかしら」、「えとう」と読み、佐賀県福岡県など九州北部の各県に多い[7]。江頭豊の祖父・嘉蔵は明治維新までは佐賀藩鍋島家家臣であったといわれる[8]。しかし、弘化2年(1845年)、元治元年(1864年)の二種類の佐賀藩着到[9]に江頭嘉蔵の名は無い。嘉蔵の曾孫江藤淳は江頭家について“手明鑓(てあきやり)”という身分の藩士だったのだろうと推測している[10]。手明鑓は平時は無役だが、戦時には具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。
しかし、嘉蔵以前の系図や史料が一切存在しないため、嘉蔵が「手明鑓」であったか否かを含めて、ルーツや俸給などはまったく分からない。嘉蔵以前の系譜は、現在までのところ、明らかになっていない[11]

参考文献

脚注

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『江頭豊』 - コトバンク
  2. ^ 『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』201頁
  3. ^ a b c 『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』203頁
  4. ^ 社名は昭和40年チッソに改称
  5. ^ a b 『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』204頁
  6. ^ “江頭豊氏が死去 雅子妃祖父で元チッソ会長” (日本語). 47NEWS. 東京都. (2006年9月24日). http://www.47news.jp/CN/200609/CN2006092401000609.html 2011年9月21日閲覧。 
  7. ^ 『小和田家の歴史―雅子妃殿下のご実家』 163頁
  8. ^ 『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』164頁
  9. ^ 現代の出勤簿に相当する
  10. ^ 江藤淳著『一族再会』 148頁に「私はそのすべてを通覧したわけではないが、弘化二年(一八四五年)、元治元年(一八六四年)の二種類の佐賀藩着到には江頭嘉蔵の名は発見できない。これは多分彼の身分がではなくて“手明鑓(てあきやり)”だったからだろうと思われる。手明鑓というのは士分であるが侍と徒士との中間に位する階層で、幕藩体制下にありながらいちはやくサラリーマン化していた佐賀藩独特の武士団である。私はなんとなく嘉蔵を一生うだつのあがらなかった下級サラリーマンのように想い描いてみたい誘惑にかられる。」とある
  11. ^ 『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』17-19、163-174頁

外部リンク

先代
吉岡喜一
チッソ株式会社社長
1964年 - 1971年
次代
嶋田賢一