武田良太
衆議院議員 武田 良太 | |
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生年月日 | 1968年4月1日(56歳) |
出身地 | 福岡県田川郡赤池町(現:福智町) |
出身校 | 早稲田大学文学部、早稲田大学大学院公共経営研究科 |
学位・資格 | 公共経営修士(専門職) |
前職 | 亀井静香衆議院議員秘書 |
所属委員会 |
法務委員会(理事) 経済産業委員会 |
世襲 |
2世 叔父・田中六助(衆議院議員) |
選出選挙区 | 福岡11区 |
当選回数 | 3回 |
所属党派 |
(無所属→) (自由民主党(亀井派)→) (無所属→) 自由民主党(山崎派) |
党役職 | 青年局学生部長 |
会館部屋番号 | 衆議院第1議員会館610号室 |
ウェブサイト | 武田良太ホームページ |
武田 良太(たけだ りょうた)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。元防衛大臣政務官。学位は公共経営修士(専門職)。
概要
ゴルフ場経営会社豊津観光開発代表取締役・武田良行の長男として福岡県田川郡赤池町(現・福智町)に生まれる。血液型はB型。福岡県立小倉高等学校を経て早稲田大学文学部卒業。2007年4月、早稲田大学大学院公共経営研究科に入学。2009年修了。
早大卒業後、亀井静香衆議院議員秘書を経て、1993年、第40回衆議院議員総選挙に叔父・田中六助の地盤である旧福岡4区(門司・小倉・田川・京築)から無所属(自民党党籍証明)で出馬するが、落選。1996年の第41回衆議院議員総選挙、2000年の第42回衆議院議員総選挙では、亀井の後ろ盾もあり自民党公認を得て立候補したが、いずれも落選した。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、前2回の選挙で小選挙区敗北、比例復活も出来なかった為、自民党の公認を得られず無所属で出馬するが、自民党公認の現職で永年のライバルである山本幸三を破り、初出馬から10年目にして初当選を果たした[1]。初当選後は自民党系無所属の新人議員で院内会派「グループ改革」を結成。2004年8月に自民党入党が認められ、亀井が率いる志帥会に所属する。
2005年7月5日の郵政民営化法案の衆議院本会議採決では反対票を投じた。このため、同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、再び無所属で出馬。自民党公認候補の山本らを破り2回目の当選を果たす。当選後の特別国会では、再提出された郵政法案に賛成票を投じた。
2006年11月27日に、復党届と誓約書を自民党に提出。12月4日、党紀委員会で復党が認められ、自民党に復帰した(郵政造反組復党問題)。2007年7月、聡子夫人が心筋梗塞で倒れ、2か月にわたる闘病後、肺炎のため35歳で死去した。娘が1人おり、以後は“父子家庭”である。
2008年8月、福田康夫改造内閣において防衛大臣政務官に就任。
自民党に復党したことで、山本との間で福岡11区における公認問題が発生したが、第45回衆議院議員総選挙直前「小選挙区は武田、比例代表は山本(九州ブロック単独2位)」と決定した。選挙では盟友関係にあった公明党との厚い信頼関係のもと選挙活動を展開[2]し、社民党などの対立候補に大差をつけ、自民党公認としては初当選を果たした。万歳三唱では、自らは娘の手を取り一緒に万歳し、傍らでは、支援者が聡子夫人の遺影を掲げた。なお、山本も比例区で当選を決めた。
所属議員連盟
略歴
経歴
政歴
- 1993年
- 7月 第40回衆議院議員総選挙(旧福岡4区・無所属)落選。
- 1996年
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(福岡11区・自由民主党公認)落選。
- 2000年
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(福岡11区・自民党公認)落選。
- 2003年
- 11月9日 第43回衆議院議員総選挙(福岡11区・無所属)当選。
- 2004年
- 8月 自民党入党、志帥会(亀井派)所属。
- 2005年
- 9月11日 第44回衆議院議員総選挙(福岡11区・無所属)当選。
- 2006年
- 12月 自民党入党。
- 2009年
- 8月30日 第45回衆議院議員総選挙(福岡11区・自民党公認)当選。
著書
- 『10年の滑走路』(2004年 ジュピター出版 ISBN 4916029879)
一族・親族
- 伯父・田中六助(衆院議員)。
関連項目
外部リンク
- 武田良太ホームページ(公式サイト)
脚注
- ^ 地盤の田川地区で大量得票し、本来山本の地盤である京築地区の切り崩しに成功したことが勝因となった。
- ^ http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/election/2008syuin/fukuoka/20090815/20090815_0003.shtml