楠本イネ

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楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月27日)は、日本医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。楠本は楠本瀧の姓。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだ事で知られる。

人物・生涯

母の瀧(お滝)

母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、丸山町遊女の源氏名「其扇(そのおうぎ)」として、当時入ることのできる日本人が極限られていた出島に出入りし、シーボルトお抱えとなって彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持った。当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っているが、父シーボルトは1828年文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。

イネは、シーボルト門下の宇和島藩二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任アントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、大村を看護し、その最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構え昔の門人やイネと交流し日本研究を続け、1861年文久元年)、幕府に招かれ外交顧問に就き江戸でヨーロッパの学問なども講義している。この間、シーボルトは家政婦としてお滝とイネが雇ったシオとの間に子をもうけ、イネを深く失望させる。

ドイツ人日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩伊達宗城から厚遇された。伊達宗城よりそれまでの「失本(しいもと)イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもといとく)と名を改める。失本とは、父シーボルトの名を漢字に改めた当て字であった。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福沢諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリッヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合せによる食中毒のため東京麻布で亡くなる。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘タダがいた。彼女は宗謙に半ば強姦されて産まれたとする説もあるが、真相は不明である。ただ宗謙が師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして他のシーボルト門下生から非難された事と、イネが彼に深く失望した事は事実である。彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。後年、タダは宇和島藩伊達宗城により改名を指示され「高」と名乗る[1]

イネが登場する作品

小説・コミック

ドラマ作品

脚注・参照

  1. ^ 本人の手記、2008年8月30日閲覧。

関連項目

外部リンク