我が闘争
我が闘争 Mein Kampf | ||
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1925年発行初版(ドイツ歴史博物館蔵) | ||
著者 | アドルフ・ヒトラー | |
発行日 | 1925年7月18日 | |
発行元 | ナチス党 | |
ジャンル | 思想、哲学 | |
国 | ドイツ | |
言語 | ドイツ語 | |
次作 | ヒトラー第二の書 | |
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『我が闘争』(わがとうそう、Mein Kampf)は、ヒトラーが1923年ミュンヘン一揆の失敗後、獄中で著作を開始した本。第1巻「Eine Abrechnung」(和解)は1925年7月18日に公表された。第2巻「Die Nationalsozialistische Bewegung」(国家社会主義的運動)は1926年に公表された。ヒトラーが選んだオリジナルタイトルは『Viereinhalb Jahre gegen Lüge, Dummheit und Feigheit』(嘘と臆病、愚かさに対する4年半)だったが、ナチス党の出版担当であるマックス・アマンはこのタイトルが複雑だということで『Mein Kampf』(我が闘争)に決定した。
執筆
ヒトラーは1924年、ランツベルク刑務所で収監されていたエミール・モーリスに、のちにルドルフ・ヘスに対し口述した。ヘスに加えて数人が同書を編集したが、雑な著述と反復が多く読解するのが困難であったとされる。この本の中で自分の生い立ちを振り返りつつ、戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言している。特に顕著なのは猛烈な反ユダヤ主義でエスペラント語はユダヤ人の陰謀であるといった主張、また生存圏(Lebensraum)獲得のための東方進出などが表された。群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されている。自叙伝は他の自叙伝同様誇張と歪曲がなされたものであるが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤおよび軍国主義的になったウィーン時代が詳細に記述されている。
出版
第一部は1925年7月18日にナチス党の出版局であるエーア出版 (Eher-Verlag) から発売された。価格は12マルクであり、当時の一般書の2倍の値段になる。これはあまり売れないと判断したアマンが少部数でも元を取れるようにしたという[1]。1925年には9,432部、1926年には6,913部が売れた。1926年12月には第二部が出版されたが、1927年の売り上げは一部二部をあわせて5,607部にとどまった。しかしナチス党は同書が大量に売れていると宣伝していた。
ナチスの党勢拡大と共に、本の売り上げは増大した。1930年には54,080部が売れた。また、この年には一部と二部を合本した廉価版が8マルクで売り出されている。1931年には50,808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらした。
ヒトラー政権下で本は巨大な人気を獲得し、事実上ナチのバイブルとなった。結婚する全ての夫婦に『我が闘争』を贈呈する事が奨励され、各自治体がエーア出版に発注した婚礼用 (市の紋章が表紙に箔押しされ、首長のメッセージが記されたページが挿入されている) の『我が闘争』が、婚姻届を提出した夫婦に贈られた。贈呈用として、本革や琥珀の板、銀細工などで装丁された様々な特装版も販売された。視覚障害者向けには6巻組の点字版も製作された。本書の販売はヒトラーに数百万ライヒスマルクの収入をもたらしたが、購入者の大半が全てを読んだわけではなく、ヒトラーに対する忠誠、ナチス党内での地位の維持、ゲシュタポの追及をかわすために購入した。第二次世界大戦終結によるナチス崩壊までに約1,000万部がドイツ国内で出版された。
この本はドイツ国外でも出版された。英訳版は第二次世界大戦前に出版されたが、反ユダヤ主義と軍国主義的主張のいくつかが削除された。最初の日本語版は、1932年に内外社から刊行された『余の闘争』(坂井隆治訳)である。以後、終戦までに、大久保康雄、室伏高信、真鍋良一、東亜研究所特別第一調査委員会が訳を手がけ、別々の会社から刊行されている[2]。戦前の日本語版では原書に掲載されたヒトラーの人種観、特にアジア人を劣等人種とする表現は一部削除の上出版された。
第二次世界大戦の終結後、連合国の解放令はナチス党幹部たちの財産すべてを没収すると規定していた。アドルフ・ヒトラーの住所は最期の時までミュンヘンのプリンツレゲンテン広場16番地であったから、ヒトラー遺産の管理人はバイエルン州だった[3]。ヒトラーの親族が版権の所有を主張し、裁判所に訴えたこともあったが、認められなかった。
評価
ヒトラー政権下で軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアは回顧録で、ヒトラー自身が「我が闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っていたとしている。また、ヘルマン・ゲーリングは「総統は彼の理論、戦術等において変幻自在だった。その為、あの本から総統の目的を推測する事は不可能だ。総統は臨機応変に己の意見や見解を変えていた。あの本は総統の哲学思想の基本的な骨組みが著されているのだろう」と語っている。
幾人かの歴史家[誰?]は、同書がヒトラーがヨーロッパの平和を脅かすことと、ホロコーストの実行を警告していたと推測した。
海軍軍人の井上成美はドイツ語の原典を読み、日本人を蔑ろにした表記を見て、ドイツ(延いては同じファシズム政権のイタリア)を信用していなかった。我が闘争では、日本については、今日の日本の繁栄はアーリア人の影響の為であるとし、それらが失われればまもなく枯渇するであろうと述べている。また、日英同盟が解消されたのはユダヤ人のせいであると非難している。
現在の扱い
ドイツではナチス賛美に繋がる出版物の刊行が法規制されている為、著作権を保有するバイエルン州政府は、ドイツ国内における本書の複写及び印刷を認めない事でドイツ連邦政府と合意している。そのため、現在ドイツ国内で流通している『我が闘争』は古書と他国版のみであるが、ヒトラーの死後70年にあたり著作権の保護期間が終了する2015年12月31日以降、注釈本としての復刊がミュンヘンの現代史研究所(IfZ)によって計画されている[4]。
ドイツ以外では翻訳本が入手可能で[4]、日本では戦前の抄訳版に変わり、1973年から角川書店が文庫版で翻訳本を刊行[4]。2008年にはイースト・プレスから漫画版も出版された[4]。また2005年にはトルコの若者の間でベストセラーになるなど、イスラエルに反感を持つ中東地域で一定の人気を保っている[4]。
収集家間においては、戦前の特装本やナチス要人の直筆署名入りの物が高値で取引されており、2005年には、ロンドンの古書類競売業者のオークションで、ヒトラーの署名入り初版本が23,800ポンドで落札されている。この他、米国立公文書館に保存されている、未刊行に終わったヒトラーの口述タイプ原稿が、『ヒトラー第二の書』、『続・我が闘争』と銘打たれて翻訳、刊行されている。
オンライン書店の対応
1999年にサイモン・ウィーゼンタール・センターがAmazon.comやバーンズ・アンド・ノーブルのような大手インターネット書店が『我が闘争』を販売している事を糾弾した際、世間の抗議を受けた両社は同書の販売を見合わせた。現在では両サイトにおいて英訳版『我が闘争』を購入することができるようになっている。
邦訳
関連書籍
- 平野一郎 訳『続・わが闘争 生存圏と領土問題』(角川文庫、2004年) ISBN 4-04-322403-6
- 立木勝 訳『ヒトラー第二の書 自身が刊行を禁じた「続・わが闘争」』(成甲書房、2004年) ISBN 4-88086-165-0
脚注
- ^ 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
- ^ 大久保康雄訳『わが闘争』(三笠書房、1937年)、室伏高信訳『我が闘争』(第一書房、1940年)、真鍋良一訳『吾が闘争』(興風館、1942年)、東亜研究所特別第一調査委員会訳『我が闘争』(東亜研究所、1942年 - 1944年)
- ^ ヴォルフガング・シュトラール:著、畔上司:訳『アドルフ・ヒトラーの一族 独裁者の隠された血筋』(草思社、2006年) ISBN 4-7942-1482-0 第7章 現在のヒトラー家 p290 - p293
- ^ a b c d e “ドイツ:ヒトラーの「わが闘争」再出版 国内で論争に”. 毎日新聞 2011年9月27日閲覧。