復興小学校
復興小学校(ふっこうしょうがっこう)は、関東大震災で被災した小学校を、復興事業の一環として鉄筋コンクリート造(RC造)で再建したものを指す。他の大規模災害後に建設された小学校を指す場合もある。
以下の説明では、東京市の状況を中心に、復興小学校以外のRC造小学校等についてもふれる。
経緯
- 東京市(15区)の状況
従来、東京市の小学校建築は木造であったが、関東大震災の前から、RC造で建設する動きが始まっていた。初めて実施されたのは、1922年竣工の林町小学校(ただし4教室のみ)で、震災までに、20校ほどが建設済み又は建設中であった。 1923年に発生した関東大震災により、小学校も大きな被害を受けた。市立小学校全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失した。
復興事業にあたり東京市は、耐震化・不燃化のため全面的にRC造を採用することに決定した。設計は東京市臨時建設局が作成した統一規格による。1924年(大正13年)6月11日に公布された「東京市立小学校復興建設費補給規程」に基づき、復興小学校の設計は東京市が一括して行い、建設費の補助が行われた。
大正末から昭和戦前期に建設されたRC造の小学校建築は、次のように分類できる。
- 復興小学校
- 被災した小学校を東京市営繕の設計により再建したもの。明石小学校、九段小学校など。復興小学校として建築された小学校は全部で117校(合築されたものがあり、115施設)。
- 52の学校では、隣接して公園を配置する試みも行われている。これは都市計画の中に小学校を位置づけて災害時の避難所としても使えるようにしたものである。
- 改築小学校、新設の小学校
- 震災前からRC造での建替え計画が進んでいたもの、震災後に建替えた小学校。あるいは震災後に新設された小学校。
- 初期には、各区が民間の建築家に設計を依頼した事例が見られる(渡辺仁設計の早稲田小学校、岡田信一郎設計の青山小学校など)。まもなくすべて東京市営繕が設計することになった。
これらの外観デザインについて、パラボラアーチなど表現主義的なデザインを採用したものもあるが、やがて装飾の無いインターナショナル・スタイルに統一された。 日中戦争が長期化し、1938年(昭和13年)に建築資材が統制されるとRC造の小学校が建設されることはなくなった。
- 1932年に編入された区域(新市域)の状況
1932年、郡部(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)が東京市に編入され、35区(現在の東京23区に相当)となった。これ以降、新市域の小学校建築は東京市営繕が設計することになったが、急激な児童数の増加による教室数の不足に対応するため、(旧市域と異なり)もっぱら木造校舎が建設された[1]。
新市域におけるRC造の小学校は16校で、編入前に建設済み、あるいは計画が進んでいたものに限られる(郡部で最初に建てられたのは1925年の寺島第一小学校である)。2020年現在、言問小学校[2](墨田区)、広尾小学校(渋谷区)が現存している。
戦前期のRC造小学校
※以下のリストは例示(現存しているもの、2000年代以降に取り壊されたもの等)であり、復興小学校等を網羅したものではない。
- 1925年(大正14年)建設
- 復興小学校の初期の事例で、2010年まで小学校の現役校舎として使われていた。北側に隣接していた公園の大半は失われたが、わずかながら残っている。[要出典]日本建築学会から重要文化財相当[3]と指摘されたが、建替えのため2010年に取り壊された。[4]。
- 1926年(大正15年、昭和元年)建設
- 建設当時は「入谷尋常小学校」。廃校になり、跡地利用が検討されたが、2021年に取壊すことが決まった[6]。
- 震災後の1926年に開校(復興小学校ではない)。中村与資平設計。建替えのため、2006年に取り壊された。
- 1927年(昭和2年)建設
- 1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。文京区が区施設の建設を計画したが、反対運動もあり、建物は耐震補強の上で2016年まで順天堂大学に貸与されていた。その後、文京区では復興小学校と復興公園を保存する計画を公表した(2020年現在)[7]。
- 1928年(昭和3年)建設
- 2017年に建て替えのため取壊された。ちなみに本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接する坂本町公園は明治時代の市区改正事業により設置された市街地小公園。
- 十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
- 廃校になり、中央区の施設十思スクエアとして使われている。東京都選定歴史的建造物。東側に隣接して十思公園がある。
- 復興小学校の対象にはならなかったが、震災による被害があり、渡辺仁の設計による新校舎を建設。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。2020年現在も小学校の現役校舎として使われているが、内部は大きく改修されている[8]。
- 1929年(昭和4年)建設
- 2020年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
- 2020年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物。東南東側に小規模だが採光の確保と狭小の校庭を補う付帯施設として建設当初より一体で計画された数寄屋橋公園[要出典]が隣接し、周辺建物が高層化した現在においても効果的に機能している。
- 建設当初は「京橋昭和小学校」。2017年、再開発事業に伴い取り壊された。再開発ビルの一角に小学校が設置される予定。
- 京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
- 1993年に廃校、建物は中央区の施設「京華スクエア」に転用されている。
- 1930年(昭和5年)建設
- 建設当初のデザインを生かしながら改修工事が行われ、2019年に竣工[10]。小学校の現役校舎として使われている。
- 2019年度には145周年を迎えた。建替えにより2020年に取り壊された。
- 1932年(昭和7年)建設
- 当時は郡部だったため、設計は東京府営繕(担当:市ノ瀬仁重郎)による。インターナショナル・スタイルだが、玄関付近に装飾も見られる。消防署が併設され、校舎に消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。2020年現在も小学校の現役校舎として使われている。国の登録有形文化財[11]。
- 1934年(昭和9年)建設
- 東京市設計の改築小学校。廃校となり、2008年から、吉本興業東京本社として使われている。DOCOMOMO JAPANにより日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。
- 1935年(昭和10年)建設
- 震災後の1935年に新設されたインターナショナルスタイルの小学校。2020年現在、小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物。
文献
- 椿 幹夫「東京都区部において戦前に建設された RC 造小学校の変遷について」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』、2016年)
- 復興小学校研究会編『図面で見る復興小学校』(2014年)
- 藤岡洋保監修『明石小学校の建築 - 復興小学校のデザイン思想』 (東洋書店、2012年)
- 小林正泰『関東大震災と「復興小学校」 - 学校建築にみる新教育思想』(勁草書房、2012年)
- 小林正泰「復興小学校建設事業に関する基礎的研究」(『東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室研究室紀要』第36号、2010年)
- 藤岡洋保「東京市立小学校鉄筋コンクリート造校舎の設計規格」(『日本建築学会論文報告集』第290号、1980年)
- 東京市『東京市教育施設復興図集』(1932年)
- 東京市『東京市の学校建設事業』(1938年)