強制改宗
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強制改宗(きょうせいかいしゅう)は、暴力や脅迫などを用いて個人の信仰を捨てさせ、他の宗教若しくは無宗教への改宗を行わせることである。この結果生前に対象者を改宗させることが出来ず殉教となった例も多い。歴史上多くの国・地域で強制改宗は行われてきた。
被害者にとっては非常に屈辱的であるため、強制改宗はその他の問題とも絡まって歴史上数多くの宗教的マイノリティーの反乱を引き起こした。このような事例としては日本でも島原の乱などが知られている(ただし、島原の乱は宗教以外にも様々な要因があり、単なる宗教紛争とは言えない)。
キリスト教徒による強制改宗
歴史的に見てキリスト教徒はシチリア島、イベリア半島、バルカン半島などで主としてイスラム教徒とユダヤ教徒に対してキリスト教への強制改宗を行った。今なお悪名高い十字軍の侵略や、ドイツ騎士団によるリトアニアやラトビア遠征などが有名である。特に第1回十字軍ではエルサレムを征服した後、キリスト教軍はほぼ全ての市民を殺害するという大量虐殺を起こし、略奪・陵辱を繰り広げた。
直接的な強制のみならず、広義の強制に基づく改宗も存在した。
イスラム教徒による強制改宗
イスラム教徒の歴史上でも強制改宗は少なからず行われた。しかし広義の強制改宗は極めて盛んであり、中東のキリスト教が衰退したのはこの結果とされる。表面上イスラム教に改宗した人間の中には偽装改宗者も含まれ、多くユダヤ教徒であった。
日本における強制改宗
この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。(2009年11月) |
日本の歴史上で代表的な強制改宗は、戦国時代から江戸時代を経て、明治時代に至るまで行われた。キリシタン大名による領民に対してのキリスト教への強制改宗やキリスト教徒やキリシタンに対する強制改宗である。これには、日本人が海外に奴隷として売られたり、サン・フェリペ号事件で「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」という発言からキリスト教が布教を通じて実質的に目指しているのが日本の植民地化であった事実が背景にある。また、当時の日本においては「キリスト教徒ではない」イコール仏教とか神道信者であった、というだけであり、仏教と神道およびその信者が組織的・計画的に行ったものではない。
当初キリシタンには「死か、改宗か、国外追放か」という三つの選択肢が与えられ[要出典]、信仰を保持したまま日本に残留することは表向きは許されなかったが、生命と信仰とを保持することを望んだキリシタン大名の高山右近や内藤如安などの人々は国外追放を選んだ。また、当初は緩やかな取締りであり、「信仰者のみが信仰するのは構わないが、布教は禁止する」や「公の場での公言は禁止する」という程度であったが、多くのキリシタンが組した大坂の役、大規模なキリシタン内乱である島原の乱以降はキリシタンへの警戒が最大級に強まったこともあって、江戸幕府は「死か改宗か」という選択の上での強制改宗を行った。結果としてクリストファン・フェレイラやジュゼッペ・キアラをはじめ多くのキリスト教徒やキリシタンは棄教し、棄教に応じなかった少数は死刑に処された。とはいえ一部の隠れキリシタンは偽装棄教によって、1874年(明治6年)にキリスト教が解禁されるまで信仰を保持した。
このような傾向は朝鮮と中国などにもあり、殉教者が出る様な激しい弾圧がしばしば行われ、仏教への強制改宗も行われた。
日本での対象はキリスト教だけに限ったことではない。古来よりカルト的な宗教(常世神信仰)や呪術を伴うもの(呪禁道、真言立川流、玄旨帰命壇など)、旧来の仏教に対して起こった仏教新宗派(浄土宗、浄土真宗)などが弾圧の対象になってきた。そもそも仏教が日本に伝わった際も、「新しい宗教」である仏教に対しての弾圧があり、仏教浸透後においても例えば日蓮宗のうち不受不施(法華経信者以外から施しをうけず、僧が法華経信者以外に施しをしない)を唱える僧または宗派(不受不施派)は江戸幕府から禁教とされ、強制改宗をさせられた。しかし、信者の中には表向きは他宗派に改宗したが、禁教の中でも法華経信仰を守ったものもいる。また、地域によっては、一向宗(浄土真宗)など既存大手の仏教宗派を禁じたところもある。