平城

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鳥瞰した平城(名古屋城・1945年

平城(ひらじろ)は、平地に築かれたをいう。江戸時代の軍学者により分類された地勢による城郭分類法の一つである。

概要

戦国時代以前は山城が中心であり、平城はほとんど築かれなかった(地形的に適当な山がない場合は、平地に城を築く場合もあった)。これは、城が軍事的な役割にのみ利用されており、平時は山麓の居館で生活し、有事に城に籠もって戦っていたからである[出典 1]。しかし、戦国時代後期になると、軍事拠点としての役割に加えて、政治的・経済的拠点としての役割も重視されるようになったため、交通や商業の要衝である平地に城を築くようになった[出典 1]

なお、海岸河川湖沼に隣接して築城され、その水を防御に利用する城を水城(みずじろ、みずき)[1][出典 1][出典 2]と分類するが、築城場所が平地(低地)になるものは平城に分類される場合もある[2]。ただし、海や川に接する山に築城された場合も水城になるため、全ての水城(海城)が平城となるわけでは無い。

代表的な近世の平城の例では、名古屋城駿府城二条城広島城などがある。平城として見られることがある江戸城大坂城の分類は平山城とすることがある。また、水城の中でも高松城今治城中津城(以上、日本三大水城)・高島城膳所城などは平城でもある。

歴史

幕府の御所
(上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた室町第

平城は、平地に土塁で囲った鎌倉時代初期から南北朝時代にかけての武士の住まいである「方形館(ほうけいやかた)」、後の室町・戦国時代にかけての守護の居館である守護所などの「(たて)」がもととなった[出典 3]。守護所は、室町幕府の御所を模して建てられ、また山城を詰城(つめのしろ)としていることが多く、街道水運の要所などの付近に築いた[出典 4]

また、地方の在地領主にも普及し同様の形状で築城が行われ、室町後期では織田信長が築城した室町第(足利義昭の御所)や二条城などが後の近世平城に影響したと考えられている[出典 4]

近世には本丸天守が建てられた。徳川家康は平城を好んでいたとされるが、巨大な平城の中枢部に高層の天守を建てることで戦略的価値[3]を生み出していたとされる(名古屋城など)[出典 5]。しかし、江戸時代には武家諸法度発布による天守などの無許可造営の禁止、必要ないとのことでの中止、災害による亡失、の財政難という経済的な理由等により次第に建築されなくなった。

関連項目

参考文献

出典
  1. ^ a b c 『図説戦国武将おもしろ事典』(監修・奈良本辰也1990年三笠書房
  2. ^ 水城 - 大辞林 第三版(三省堂
  3. ^ 加藤理文ほか執筆『【決定版】図説 縄張のすべて』学習研究社 2008年
  4. ^ a b 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京出版 2008年
  5. ^ 『戦乱中国の覇者 毛利の城と戦略』成美堂出版 1997年
脚注
  1. ^ 特に海に隣接するものを海城(うみじろ)と呼ぶ。
  2. ^ 例えば、赤穂城の公式ウェブサイトでは、同城について「変形輪郭式の海岸平城」と解説している。赤穂城とは - 国史跡赤穂城跡公式Webサイト(赤穂市教育委員会生涯学習課文化財係)
  3. ^ 巨大天守を持つ平城が城下町から見えることで、その支配権力を示すことができる。