幡ヶ谷
幡ヶ谷(はたがや)は、東京都渋谷区北部にある地名である。地名「幡ヶ谷」[1]の指し示す範囲には以下の2通りがあり、本稿では両者とも扱う。
- 渋谷区の現行行政地名としての「幡ヶ谷」。1960年(昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名で、幡ヶ谷一丁目から幡ヶ谷三丁目まである。人口は15,019人[2]。郵便番号は、151-0072。
- 汎称地名としての「幡ヶ谷」(幡ヶ谷地域)。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、渋谷区の現行行政地名では「1」に加えて、区内本町、幡ヶ谷、笹塚が含まれる。
由来
1082年(永保2年)に源義家が後三年合戦から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる[3]。
概要
広義の幡ヶ谷は渋谷区の北部に位置し、地域内の公称町名は北東から西南へ向けて順に、本町、幡ヶ谷、笹塚がある。地域の北部は中野区南台および弥生町に、東部は新宿区西新宿に、南部は代々木地域に属する渋谷区初台、西原、およびその西の世田谷区北沢に接し、西部は杉並区方南に接する。幡ヶ谷は旧幡ヶ谷村の村社、氷川神社(本町5丁目に所在)を共通の氏神とし、秋の大祭には全域から山車が集まる。
地形は武蔵野台地上の平坦な部分が大半を占めるが、北部の本町4丁目から幡ヶ谷3丁目、笹塚3丁目にかけては、かつてあった神田川の支流に沿って浅い谷になっていて、明治の頃には湿地帯をなし、水田がつくられていた。また地域の南縁にほぼ沿って昔の玉川上水が流れていたが、現在は笹塚駅の近辺の一部を除いて暗渠化され、緑道(公園)として整備されている。
地域内は大半が住宅街である。一方、幡ヶ谷二丁目の水道道路南側にはテルモの本社・工場、オリンパスの事業所などいくつかの工場が立地している。
商業面では甲州街道沿いを中心とした幡ヶ谷駅周辺に企業のビルなどが目立ち、六号通り商店街などの商店街も形成され、商業地が多く占める。西部においても、笹塚駅の周辺は近くに十号通り商店街が形成されるなど活発な商業地となっている。東部は新宿副都心に接し、その地にはオペラシティに隣接して新国立劇場がある。
歴史
始まりから東京市編入まで
「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代、後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となって、そのまま明治を迎えた。
江戸時代末期には幡ヶ谷は豊島郡に属し、豊島郡幡ヶ谷村と称していたが、1878年(明治11年)に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立されるに及んで南豊島郡幡ヶ谷村となった。そして、その頃から幡ヶ谷村は隣の代々木村と連合して役場を設けるなど関係を深めていたが、1888年(明治21年)に市制町村制が公布、施行されるに及んで、翌1889年(明治22年)に正式に合併して代々幡村となり、1915年(大正4年)に町制を施行して代々幡町となった。町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれ、地域内に下町、幡ヶ谷本村、原、中幡ヶ谷、笹塚の5つの小字を有した。
編入からの町名の変遷
1932年(昭和7年)に代々幡町は東京市に編入され、旧渋谷町、旧千駄ヶ谷町と共に渋谷区を形成したが、その際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。
- 幡ヶ谷本町一丁目〜三丁目(←幡ヶ谷本村、下町)
- 幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷)
- 幡ヶ谷原町(←原)
- 幡ヶ谷笹塚町(←笹塚)
1960年(昭和35年)に町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。ただし、新しい町域の設定に際し、中野通りなどの比較的新しい道路を境界としたので、旧町のと新町の町域には多少の相違がある。
1968年(昭和43年)1月1日に、住居表示を実施[4]。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目〜三丁目が成立した。
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ各町名ともその一部) |
---|---|---|
本町六丁目 | 1968年1月1日 | 本町六丁目(全域)、本町一丁目、幡ヶ谷二丁目 |
幡ヶ谷一丁目 | 幡ヶ谷一丁目(全域) | |
幡ヶ谷二丁目 | 幡ヶ谷二丁目 | |
幡ヶ谷三丁目 | 幡ヶ谷三丁目(全域)、幡ヶ谷二丁目 |
その他の主な事象
- 1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設
- 1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加にともなって、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。
- 玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便をかこった。
- 京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。
- 1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止
- 1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。
幡ヶ谷の風物
旧版地図等によると、甲州街道沿いには古くから集落が形成されていたが、その他の部分は1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに1923年(大正12年)の関東大震災等を契機に宅地化が進んだ。
昭和初年までは人通りも少ない農業地帯であり、通行人が狸に化かされた怪談話[5]が伝わるほど淋しい地域だった。20世紀前半、付近で工場の立地が進み、「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれた[6]。現在は、住宅地、商業地の方が目立つ。
交通
幹線道路
幹線道路は、地内にはほぼ東西に国道20号(甲州街道)及び東京都道431号角筈和泉町線(水道道路)が走り、本町の最北部を方南通りが通っている。また、ほぼ南北には中央に中野通りが横切り、東端地域を山手通りが通り、西端のすぐ外側には環七通りが走り、それらへのアクセスも良いようである。
鉄道
- 地内に甲州街道に沿って京王線が走っており、地域西部に京王線笹塚駅があり、地域中央南部の甲州街道地下に京王新線幡ヶ谷駅がある。また、地域東部南縁の甲州街道地下には京王新線初台駅があって、本町の住民多くが最寄り駅として利用している。
- 地域の北東部を都営地下鉄大江戸線が貫いており、本町三丁目〜四丁目の住民には同線の西新宿五丁目駅が最寄り駅になる。
路線バス
路線バスは中野通りや水道道路、甲州街道沿いに多数のバス便があり、新宿や渋谷駅、中野駅へ行く際などにも利用されている。
主な施設
神社仏閣
学校
公立小中学校
- 渋谷区立笹塚小学校(笹塚2丁目)
- 渋谷区立本町小学校(本町4丁目)
- 渋谷区立中幡小学校(幡ヶ谷3丁目)
- 渋谷区立本町東小学校(本町3丁目)
- 渋谷区立笹塚中学校(笹塚3丁目)
- 渋谷区立本町中学校(本町4丁目)
私立学校
官公施設
- 東京消防庁消防科学研究所(幡ヶ谷1丁目)
- 幡ヶ谷高齢者センター(幡ヶ谷2丁目)
- 幡ヶ谷社会教育館(幡ヶ谷2丁目)
企業
- カシオ計算機本社(本町1丁目)
- 伊藤園本社(本町3丁目)
- 帝国石油本社(幡ヶ谷1丁目)
- テルモ本社(幡ヶ谷2丁目)
- オリンパス幡ヶ谷事業場(幡ヶ谷2丁目)
- 三工社本社〔幡ヶ谷2丁目)
- 新宿中村屋本社・東京事業所(笹塚1丁目)
その他
- 新国立劇場(本町1丁目)
出身人物
- 橋下徹(タレント、弁護士、政治家) - 前大阪府知事、現大阪市長
参考文献
- 『幡ヶ谷郷土誌』氷川神社社務所内「幡ヶ谷を語る会」、昭和53年(1978年)
脚注
- ^ 郵便番号簿や新聞などの印刷物では、便宜上「幡ケ谷」とされる場合もある
- ^ 2010年7月31日現在、住民基本台帳による。渋谷区調べ
- ^ 渋谷区史
- ^ 同年3月30日、自治省告示第54号「住居表示が実施された件」
- ^ 「幡ヶ谷の古狸」深夜、近辺の男が玉川上水の土手道を通っていると、向こうから提灯を持った老婆がやってきた。狭い道ですれ違う際に老婆はよろけて男につきあたって転倒し、そのまま土手下の大根畑に転落してしまった。男が畑に降りて老婆を助けおこそうと両手を引っ張ったところ、腕がすっぽり肩から抜けてしまい、腕のない老婆が男に向けて高笑いの声をたてた。男は驚いて逃げ出したが、翌日現場をあらためたところ老婆の姿はなく、ただ畑の大根が二本引き抜かれていたという。
- ^ 渋谷区史