幕府
幕府(ばくふ、mùfǔ)は、将軍の任命を受けた者が、朝廷の外にあって、朝廷のために活動するために設けた役所[1]。将軍府(しょうぐんふ、jiāngjūn fǔ)または軍府(ぐんぷ、jūn fǔ)ともいう[2]。
概要
将軍は幕府(将軍府・軍府)の設置、すなわち「開府」と同時に幕僚を任命する権限も認められており、「将軍」は司馬・従侍中郎・参軍[3]、「大将軍」は長史・司馬・従侍中郎・参軍[3]などを任命できた。これらの幕府に仕える幕僚たちを「府官」[3]と称する。
4世紀から7世紀にかけて、倭をふくむ中国の周辺諸国・諸民族は中国と関係を持つ際に、君主号・爵位と共に、軍事指揮官の称号として「将軍」号や「使持節」号、「都督(都督◯◯諸軍事)」号などを授けるよう求めた。その際には、あわせて自身が受けたものよりやや格下の「将軍」号(複数)や「府官」の称号も求め[注釈 1]、配下に分配することによって自身の権力を強化し、権威を高めることに活用した。
日本では7世紀以降、中国に対し、君主自身(大王・天皇)や配下の豪族、貴族・官僚らのために将軍号や府官の職を求めることはなくなり、8世紀以降の「天皇」は、自身で配下に各種の将軍号を授与するようになった。中世から近世にかけて、武家の棟梁を首班とする政権が次々と成立するが、平氏政権や織田政権、豊臣政権をのぞき、その首班は征夷大将軍の称号を受けていた。江戸時代中期以降にこれら歴代の武家政権を幕府と称するようになるが、「それは天皇が任命した征夷大将軍の幕府である」[3]。
7世紀以降の新羅は、歴代の王たちが引き続き唐より将軍号を受けたが、配下のために中国から将軍号を授かることも、自身で配下を将軍に任命することもなかった。高麗・李氏朝鮮では王が中国に将軍号を求めることはなくなり、配下に将軍号を自身で授けるようになった。
高句麗の故地に建国された渤海は、歴代の王たちが7世紀より唐から王号と共に左驍衛大将軍(初期)または右驍衛大将軍(中期以降)の任命を受けた。第六代大嵩璘の時、君主の称号が郡王から国王に格上げされたのに伴い、官職も「将軍」職にかえて文官の銀青光禄大夫・検校司空を授与されることとなった。同国は軍事組織として10の「衛」を設置し、それぞれの衛に大将軍1、将軍1を置いたが、この「将軍」号は渤海王自身の授与による。女直(高句麗・渤海の遺民である靺鞨の子孫)が建国した金は、中国から君主号や将軍号を授かるどころか、中国の北半分を征服し、宋王朝に朝貢させる勢いであったので、君主自身やその配下に対して「中国に将軍号を求める」ことは全くなかった。
モンゴル帝国(元朝)、明朝、清朝も、中国周辺の諸国・諸民族の君主や首長たちに軍事指揮官の称号を授与したが、元朝は万戸制、明朝・清朝は衛所制による称号を用い、将軍号の授与は行わなかった。
語義
「幕」は「幔幕」・「陣幕」・「帳幕」・「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。日本では近衛大将の唐名となり、「幕下(ばっか、ばくか)」あるいは「柳営」[注釈 2]ともいった。
中国における展開
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漢代には大将軍などの高位の将軍が幕府を開き、幕僚を置いて政治をとることが多くなった[注釈 3]。
三世紀の西晋の混乱以降、地方官は将軍を兼任、その後もこの傾向は続き、将軍職の数は増加していく。宋代には、単なる軍事的官職だけではなく、身分を示す役割も持つようになった[5]。
中国歴代王朝における将軍号の種類とランクの詳細については「将軍」を参照。
東アジア諸国における展開
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東アジア諸国における「幕府」の担い手
漢代から朝鮮半島における中国の出先機関であった楽浪郡、帯方郡を314年に高句麗が滅した際、郡に関わっていた中国系の役人や知識人たちとその子孫は、多くがそのまま高句麗の支配下に入り、あるいは朝鮮半島の南部に逃れ、さらには日本列島に渡った[6]。これらの中国系の人々は、中国文化が有する技術・知識(当時の国際共通語である「漢文」(中国語の文語文)の作成能力を含む)を代々受け継ぎ、高句麗・百済・倭・新羅などの諸国において、支配機構の整備や国家形成に活用された[6][7]。
高句麗・百済・倭などでは、中国から授かった将軍号と幕僚(府官)の称号のうち、王族および土着の豪族たちには「将軍」号が、中国系の人々には「府官」の称号が分配される傾向が見られた[8]。
中国より将軍号を受けた諸国・諸民族の君主と臣下の一覧については将軍を参照。
中国王朝 | 元号 | 西暦 | 高句麗 | 百済 | 倭 | 新羅 | 備考 |
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→記事「将軍」を参照。 |
以下は、中国王朝に使節として派遣された府官。
中国王朝 | 元号 | 西暦 | 高句麗 | 百済 | 倭 |
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晋 | 義熙9 | 413 | 長史高翼 | ||
宋 | 景平2 | 424 | 長史馬婁 | 長史張威 | |
〃 | 元嘉2 | 425 | 司馬曹達 | ||
〃 | 考建2 | 455 | 長史董騰 | ||
北魏 | 延興2 | 472 | 長史餘礼 司馬張茂 |
||
南斉 | 永明8 | 490 | 長史高達 司馬楊茂 参軍会邁 |
||
〃 | 建武2 | 495 | 長史慕遺 司馬王茂 参軍張塞 |
倭・高句麗・百済が中国との外交で府官を派遣するのは、幕府(将軍府・軍府)が中国皇帝の権威のもとで設置され、中国への朝貢は幕府からの報告という側面があったことを示している[9]。
当時、高句麗・百済・倭の三国では、各国の王族が中国向けには一字姓・一字名を名乗るが、地元豪族達は「乎獲居(ヲワケ)」・「无利弖(ムリテ)」(倭)、「牟頭婁」(高句麗)、「賛首流」(百済)など、姓の無い非中国的な名をそのまま用いていたので、上の表の使者達は、高句麗王族の高翼、百済王族の餘礼を除き、中国系であったと推測される[10]。
東アジア諸国における「幕府」の展開
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東アジアで初めて「府官制」を導入したのは高句麗の広開土王である[11]。 396-398年ごろ、後燕の慕容宝より「平州牧」に任命された広開土王は、この地位に基づいて長史・司馬・参軍を置いた[11]。長寿王は413年、東晋に府官を派遣、「征東将軍・高句麗王」の任命を受けた。長寿王は「征東将軍府」を設置し、あらためて府官制を確立した[12]。
高句麗による府官制の導入と前後して、百済においても府官制が採用された。東晋との外交で「鎮東将軍・百済王」に任命されて鎮東将軍府を開設し、王を頂点とする支配機構の整備を進めた。
倭の王倭讃も中国より官爵を授かることを目指し、421年に東晋に使節を派遣し、「安東将軍・倭国王」に冊封されて安東将軍府を開設した。
東アジア諸国における「幕府」の格差
国名 | 将軍号の上昇 |
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高句麗 | (南朝授与)征東将軍→征東大将軍→車騎大将軍→撫軍(東)大将軍→寧東将軍 (北朝授与)征東将軍→車騎大将軍→安東将軍→驃騎大将軍→大将軍 |
百済 | 鎮東将軍→鎮東大将軍 |
倭 | 安東将軍→安東大将軍→鎮東大将軍→征東大将軍 |
授与した中国王朝、受けた各国の君主・臣下の詳細については「将軍」を参照。
国名 | 「節」のランク | 文官職 | 都督の管轄領域 | 将軍号 | 王号 | 爵位 | |
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高句麗 | 使持節 | 散騎常侍 | 都督営平二州諸軍事 | 征東大将軍 | 高句麗王 | 楽浪公 | |
百済 | 使持節 | 都督百済諸軍事 | 鎮東大将軍 | 百済王 | |||
倭 | 要求前 | 安東将軍 | 倭国王 | ||||
倭 | 要求 | 使持節 | 都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事 | 安東大将軍 | 倭国王 | ||
倭 | 任命 | 安東将軍 | 倭国王 |
節;使持節 > 持節 > 仮節
将軍号;征東(三品) > 鎮東(三品) > 安東(三品)
将軍号;大将軍(一品) > ◯◯大将軍(二品) > ◯◯将軍(三品以下)
王 号;倭王 > 倭国王 (三国魏より「親魏倭王」、南朝宋斉梁より「倭国王」)
倭の五王と中国王朝との交渉は421年の讃の宋への遣使にはじまるが、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗王・百済王もその地位を進められたが、倭王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官されており、この違いは、宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る[14]。
倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であり、これは高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものとする主張がある。特に韓国では、中国の官職制度は、四安将軍→四鎮将軍→四征将軍と昇進するため、高句麗王(「征東(大)将軍」)、百済王(「鎮東(大)将軍」)、倭王(「安東(大)将軍」)軍号には上下優劣格差がある、すなわち、東夷の諸王に正式に除正された地位は、高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という序列は、南北朝時代を通じて変わることはなく[15]、その叙任にあたっては三国に対する重要度が反映しており、宋代を通じて三国間に身分の違いがあり、将軍号の序列において百済王より劣る倭王が百済の軍事的支配権を意味する「都督百済諸軍事」号を要求することなど論外という評価がある[16]。朴鐘大は、「同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である」と述べている[16]。これに対して、一見すると序列があるようにみえるが、事実は南朝(東晋・宋)への入貢順に東方将軍号の上位から授けられたもので、南朝側による格付けでもなく、また国際的評価によるものでもなく、三国間に上下優劣格差はなく、倭に対する評価が高句麗・百済よりも低く、それが「安東(大)将軍」に表れているとみなすことはできないという反論がある[17]。
坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視し、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」であり[18]、南朝が倭王の席次や軍号が百済王より下位であるため百済に対する軍事的支配権を承認しなかったという主張は、南朝は倭王の軍号を高めて百済の上位にすることはいくらでも可能であるため、「本末転倒した主張」と指摘している[18]。
石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である「鎮東(大)将軍」である百済の軍事的支配権を、下位である「安東(大)将軍」である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が生じることを指摘している[16]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないことは考えられず、百済の軍事的支配権を主張した倭王は「安東(大)将軍」でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であることを認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの「安東(大)将軍」が百済王の「鎮東(大)将軍」よりも下位であり、「都督百済諸軍事」号要求が不当な要求であることを認識していたならば、百済王と同等の「鎮東(大)将軍」、さらに上位の「征東(大)将軍」を自称し、除正を要求する、あるいは承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした武は、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[19]。
坂元義種は、百済王に鎮東将軍が授与された40年後に高句麗王に百済王よりも上位である「征東将軍」が授与されていることから、任官の先後が、軍号の上下を決定するものではないと主張している[19]。
義熙九年(四一三)、東晋は数十年ぶりに使者を送ってきた高句麗王に征東将軍を授けたが、この将軍号は百済王の鎮東将軍よりも上位のものであった。なお、この間、百済王は咸安二年(三七二)に余句が、太元十一年(三八六)には余暉が、それぞれ鎮東将軍に任命され、また咸安二年・太元九年の朝貢も知られている。このことは、対中交渉の時期や交渉回数の多寡、あるいは任官時期のあとさきが、かならずしも任官内容を決定するものではないことを示しているといえよう。つまり、任官内容を決定するものは、中国王朝の国際政策や諸国に対する国際的評価などであったと思う。 — 坂元義種、倭の五王
これに対して石井正敏は、高句麗王が南朝から将軍号を授与された初見は413年であるが、高句麗の故国原王が355年に前燕に遣使して征東大将軍を授与されていること、また、高句麗王が336年と343年に東晋に朝貢しており、『晋書』には冊封の有無は記録されていないが、同一王(故国原王)による2度の朝貢に際して、朝貢しておきながら、見返りである官爵を求めなかったことは考え難いことから、少なくとも2度目の朝貢では軍号を授与されていることは考えられ、また東晋・宋が、いつ朝貢するかも分からない高句麗のために東方将軍号の最上位を空席にして待っていたとも考え難い[20]。高句麗に先行して朝貢した百済に「征東将軍」を授与するのが自然であるにもかかわらず、百済王に「鎮東将軍」が授与されていることは、336年ないし343年の朝貢に際して高句麗王に「征東将軍」を授与されている可能性が高い[20]。したがって、軍号授与は、高句麗→百済→倭の順となり、高句麗、百済、倭に対する東方将軍号は、南朝への入貢順に東方将軍号の上位から授与されたものであり、高句麗王、百済王、倭王に上下優劣格差があるという主張には従えず、倭王は南北朝時代を通じて「安東大将軍」を自称するに留まり、「鎮東(大)将軍」「征東(大)将軍」を要求しなかったのは、百済の軍事的支配権要求は「安東(大)将軍」で十分かつ「安東(大)将軍」は「鎮東(大)将軍」に劣るとは認識しておらず、実際に「安東(大)将軍」で「都督百済諸軍事」を得られると理解していたからであり、「安東(大)将軍」のままで「都督百済諸軍事」を要求したことに問題はなかったことを指摘している[17]。また、倭王による「都督百済諸軍事」要求は、百済領は一地域二軍事権の対象外であり、制度上許可できないため、南朝が「都督百済諸軍事」を倭王に承認しなかったのは、すでに百済王に「都督百済諸軍事」を授与していたからであり、倭王の軍号が百済王の軍号に劣るという理由に基づくものではないことも指摘している[21]。
七世紀以降の東アジア諸国における「将軍」号
倭国と律令制下の日本
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日本では平安時代の蝦夷との戦いの時の最高司令部を陸奥多賀城、後に胆沢城に設け、ここを鎮守府将軍の鎮守府として「遠の朝廷」(とおのみかど)と敬称し、非常時には陸奥・出羽の行政及び軍事の専権を持つものとされた。これが幕府の祖型とされる。奥州平泉に本拠地を構えた奥州藤原氏は、三代目当主の藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられて権勢を振るい、本来は非常時のみであった将軍の権力を常に行使した。高橋富雄によれば、鎮守府将軍は前述の周亜夫の故事から「君命も受けざる所あり」とされ、非常時には天皇大権を行使できる「節刀」を授かっていた[22]。
新羅・高麗・朝鮮
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高麗では1170年から1270年にかけて武臣政権が成立するが、政権首班の官職・称号としては「将軍」号を用いず、その政体が「幕府」と呼ばれることもない。
靺鞨・女直・満洲
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脚注
注釈
- ^ 中国に君主の代替わりを報告し、称号の更新を求める国書には、「仮授」、「私署」、「行」と称して欲しい称号を自称し、「除正」(正式の任命)を求めた。中国側は先代君主と同等の称号を認定し、称号の格上げを出し渋るのが通例であった。
- ^ 前漢の将軍、周亜夫が匈奴征伐のために「細柳」という地に布陣し、軍規を厳しく威令を整え、文帝の行列すらも陣中の作法を守らせるために下馬させ、かえって文帝の賞賛を受けたという『漢書』周勃伝の故事より
- ^ 中国史学者の渡邉義浩によれば、後漢から三国時代の大将軍は軍事・内政の全権を掌握する政権の最高権力者の官位とされることが多く、蜀漢の諸葛亮の後継者である蔣琬らが就任しているという[4]。
出典
- ^ 河内 2018, p. 64-65
- ^ 河内 2018, p. 64
- ^ a b c d e 河内 2018, p. 65
- ^ 渡邉義浩『「三国志」武将34選』PHP研究所〈PHP文庫〉、2009年4月1日。ISBN 4569672418。
- ^ 河内 2018, p. 61-62
- ^ a b 河内 2018, p. 70-71
- ^ 河内 2018, p. 149-151
- ^ 河内 2018, p. 69-72
- ^ 河内 2018, p. 66
- ^ 河内 2018, p. 69-70
- ^ a b 河内 2018, p. 67
- ^ 河内 2018, p. 68
- ^ 河内 2018, p. 77
- ^ 日本大百科全書『倭の五王』 - コトバンク
- ^ 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972年、112頁。ISBN 4-14-001172-6。
- ^ a b c 石井 2005, p. 169
- ^ a b 石井 2005, p. 175
- ^ a b 坂元義種『倭の五王』教育社、1981年9月、180頁。ISBN 4315401455。
- ^ a b 石井 2005, p. 173
- ^ a b 石井 2005, p. 174
- ^ 石井 2005, p. 172
- ^ 高橋富雄『平泉の世紀―古代と中世の間』講談社〈講談社学術文庫〉、2012年。
参考文献
- 河内春人『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社〈中公新書〉、2018年1月19日。ISBN 4121024702。
- 矢木毅「高麗における軍令權の構造とその變質」『東方學報』第70号、京都大學人文科學研究所、1998年3月、291-327頁、doi:10.14989/66795、ISSN 03042448、NAID 110000282441。
- 奥田尚「七世紀中葉の朝鮮三国に関する初歩的考察」『追手門学院大学文学部紀要』第1巻、1985年12月、186-169頁、ISSN 03898695。
- 石井正敏 (2005年6月). “5世紀の日韓関係 - 倭の五王と高句麗・百済 -”. 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究). オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。