小出朋治

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小出朋治(こいで ともはる、1888年 - 1945年)は、ホーリネス弾圧事件で堺刑務所で殉教した、ホーリネス系の牧師小出忍の実父。

生涯

1888年明治21年)に生まれ、柏木聖書学院に学び、東洋宣教会(後の、日本ホーリネス教会)の牧師になる。

1907年(明治40年)11月24日より、新潟県を巡回した中田重治に同伴し、小出だけ新潟県にとどまり伝道をする。[1]そして、1908年(明治41年)4月10日に東洋宣教会が役員会制度を設けた時に、丹羽平三郎、高野雪と共に新潟県長岡市の牧師に任命される。[2]

1909年(明治42年)には、米子に福音伝道館が開設されることになり、7月6日より11日まで、柏木の聖書学院で開かれた年会で秋山由五郎と共に米子福音伝道館の伝道者に任命された。[3]

1911年(明治44年)埼玉県大宮(現、秩父市)の福音館で牧師をしているときに、聖教団事件が起こる。小出は中田重治監督側につき、渡辺善太米田豊たちと一緒に東洋宣教会の教職者を辞任する。短期間で聖教団事件が収束した後、小出は鹿児島県奄美大島名瀬で半自給をしながら開拓伝道を始めた。1912年に中田重治が奄美大島を訪問した。

1918年(大正7年)小出が廣島アライアンス教会から招聘され、中野教会に赴任する。1920年(大正9年)6月には元牧師の眞嶋慶三郎が中野教会に復帰すると。小出は伊東教会へ転出した。[4]

1923年9月1日関東大震災が起こったとき、小出は浅草の教会の牧師をしていた。教会は焼失したが、小出一家の着の身着のままで逃げて無事だった。10月8日の「聖潔の友」に震災の体験記である「御守りの記」を掲載した。

1925年(大正14年)日本ホーリネス教会の鮮満部長に任命される。[5]

1933年(昭和8年)5月2日、京城で伝道していた時に、朝鮮半島を訪問中の中田重治と共に、普州に行き、更に小出は中田を案内して、小鹿島という島に行き慈恵病院というらい診療所に行った。小出は小鹿島に巡回伝道しており、病院の700名の内、350名がすでに洗礼を受けていた。[6]

大阪西野田教会の牧師をしている時に、小山宗祐に洗礼を授ける。1936年昭和11年)のホーリネス分裂事件の際には、日本聖教会の牧師になり、1941年(昭和16年)6月日本基督教団成立時には、第6部に所属するが、1942年(昭和17年)のホーリネス系3団体の一斉検挙のときに逮捕され、禁固3年の実刑判決を受けた。ただ一度だけ、家族に手紙を書くことが許された。その手紙には、「生還を願わずして死に至るまで信なれ」と書いてあった。

1945年(昭和20年)の終戦後に、堺刑務所で釈放間近になり、病死したとの知らせがあり、夫人と子息の小出忍が遺体を引き取りに行った。遺体には、3センチの幅の生々しい血痕が2つあり、背中には鉄棒で殴られたらしい紫に腫れた斑点があり、特別高等警察拷問により死亡したと見られている。

脚注

  1. ^ 『中田重治伝』165ページ
  2. ^ 『中田重治伝』170ページ
  3. ^ 『中田重治伝』175ページ
  4. ^ 1917年(大正6)年11月には中野教会眞嶋慶三郎が病気静養のために高山教会に転任すると。高山教会から日本伝道隊の梶原景盛が牧師として着任する。1918年9月には梶原景盛が日本メソヂスト赤穂教会へ転任した。そのために小出が招聘された。
  5. ^ 日本ホーリネス教会は朝鮮半島満州の日本人への伝道を目的としている。現地人への伝道は東洋宣教会朝鮮聖潔教会が行った。中村敏『日本プロテスタント海外宣教史』,147ページ
  6. ^ 『中田重治伝』416ページ

参考文献

  • 高野勝夫著『キリスト教逸話例話集』神戸キリスト教書店、1998年
  • 米田勇『中田重治伝』中田重治伝刊行委員会、1959年