宮本武蔵 (小説)

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宮本武蔵』(みやもとむさし)は、吉川英治の新聞小説。朝日新聞に連載されたこの作品は、1935年の8月23日から、4年後の1939年7月11日まで続いた。

二天一流の開祖でもある剣豪宮本武蔵の剣士として自己を確立するに至るまでの成長を描く。同時に、彼を取り巻く武芸者たちの人生も描かれている。

一如を目指す求道者・宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、新聞小説史上かつてないほどの人気を得た、大衆小説の代表作である[1]

連載後も永く、多くの人々が影響を受けた旨述べている[2][3]

あらすじ

関ヶ原の戦いで西軍に就き、敗れた新免武蔵(しんめんたけぞう)。立身出世を望んで故郷の村を出た武蔵は生きる目標を失ってしまい、相棒・又八ともはぐれてしまった。

又八が行方不明になったことを彼の親族に伝えるべく村へ帰るも、残党狩りという名目で村人たちから非情な迫害を受けることになる。近寄るものを全て斬り殺してしまい、心も身体もぼろぼろになった武蔵の前に沢庵宗彭が現れる。

沢庵に出会い捕縛された武蔵は、自分の生きる道を説いてもらい、剣禅一如を目指し再び剣の道に生きる志を立て、名乗りを宮本武蔵と改める。

その後、武者修行の旅を始めた武蔵は、幾多の武芸者に出会い、成長していく。

小説誕生の経緯

菊池寛直木三十五との間に生じた宮本武蔵の強弱を論じた論争に端を発する。

1932年に直木が「武蔵=非名人説」を発表し、それに対して菊池が「武蔵=名人説」を唱えて反論した。論争の最中、直木が吉川英治に対してどちらの説を採るかを尋ねたところ、吉川は菊池説を支持すると表明した。直木は「吉川が武蔵を名人とする理由を発表せよ」と迫ったが、この要求に対して吉川は沈黙を守った。

1935年になり吉川は本作を発表。徳川夢声によるラジオ朗読や映画化されるほどの人気を博し、「武蔵=名人説」が多くの支持を集める結果となった(参考:海音寺潮五郎『史談と史論』講談社文庫)。

関連作品

映画

テレビドラマ

演劇

漫画

脚注

  1. ^ 連載は、最初は200回「くらいの約束で」連載を始めたが「作者の意気込み、読者、新聞社の熱望で」5年がかり、1000余回の大作に発展していった(講談社文庫第8巻 裏表紙)。
  2. ^ 吉川自身は、古橋広之進升田幸三も本書のどこかを自身の精進に生かし得たということを「人づてに聞かされもした」「(よろこびとか張り合い以上に)苦痛にも似た自責をおぼえないではいられない」と述べている(講談社文庫第1巻 p.5 ISBN 9784061965140)。
  3. ^ 王貞治は、通算本塁打の「世界記録」を達成してからの境地について、「(武蔵にも)"たけぞう"という名の時代があった。長じて"武蔵"になったように、道を極めたい一心でした」と述べている(巨人軍5000勝の記憶p.58)。