冠着山

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姨捨山

標高 1,252 m
所在地 長野県千曲市東筑摩郡筑北村
位置 北緯36度28分07秒 東経138度06分24秒 / 北緯36.46861度 東経138.10667度 / 36.46861; 138.10667
山系 筑北三山
プロジェクト 山
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冠着山の位置(日本内)
冠着山
姨捨山

姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)は、長野県千曲市東筑摩郡筑北村にまたがる。正名は冠着山(かむりきやま)で冠山(冠嶽)とも更科山とも称され坊城とも言われた。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。江戸時代の作製と見られる川中島合戦陣取り図(長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれている。古峠を通って古代の街道を使用した旅人によって古今集に歌われたのは冠着山だ、と主張した地元村長の塚田雅丈による国土地理院への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名が一般的になったのは明治期以後と言われる[1]

概要

標高は1,252メートルで、長野盆地南西に位置する。「田毎(たごと)の」として知られるほど棚田に映る月が美しく見られる場所として古くから知られる。1999年に「姨捨(田毎の月)」が国の名勝に指定され、2010年には「姨捨の棚田」が重要文化的景観として選定された。

農林水産省により「日本の棚田100選」にも、その第1号として数えられた。また、2008年に全国に数ある月の名所の中から姨捨が第1位の「お月見ポイント」に選ばれた。高知県桂浜や滋賀県石山寺(京都東山との説もある)とともに従来から日本三大名月に数えられていた。田毎の月は長楽寺の持田である四十八枚田に映る月を言い、今も多くの地図上に名所を示す「∴」印はこの田の位置に示されている。信濃三大名月と言うのもあって、ここと「園原木賊の月」「木曽懸橋の月」とが数えられていると言う。

千枚田とも言われる多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされているが上杉謙信が麓の武水別神社に上げた武田信玄討滅の願文(上杉家文書)に「祖母捨山田毎潤満月の影」とあり永禄7年(1564年)には田毎に月を映すことが既に広く知られていたと考えるのが相当である。また棚田の下部地域で近年の道路工事に際して弥生時代の棚田が発掘されてもいる。

この地の月に関する初見は『古今和歌集』(905年序、巻17-878)であり、以来「オハステ」は平安貴族や文人達の憧れの地名となった。

山頂には冠着神社を祀るトタン屋根の祠と鳥居がある。この神社の祭神は月夜見尊と言い、頂上付近に蛍が舞う7月に麓から氏子(現在では自治会役員の輪番)が登って御篭もりをする祭りがあるのだという。また高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑もある。

山名の由来

諸説あり、主なものを列記する。

  • 姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎しその料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この部民小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。
  • 冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。
  • 別名の更級山の呼称は更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり狼煙城でもあったとの伝説があることから。

以上の他にも「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる[2]。この地は古来の街道に近く古峠や猿ヶ馬場峠、一本松峠などの難路脇に行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説がある。また正倉院宝物の麻袴に信濃国から上納された旨の墨書があることからも知られるように信濃国は古くから麻の産地であった。峠を挟んだ麻績(おみ)の地名は麻を績いだ部民が暮らした地と伝えられるように、麻のことを「オ」ともいい、繊維を採取した麻柄(オガラ)は屋根材や燃料、農業資材として用途があるが葉については投棄されたようで「麻(オ)の葉の捨て場」を「オハステバ」と言っていたことからだとする俗説(学説ではない)もある[要出典]

棄老伝説

「姨捨」の名は、姨をこの山に捨てた男性が名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという説話(『大和物語』など)によるともされる。日本各地(世界各地にも)には様々な棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』にも棄老にまつわる話がある。しかし棄老伝説は古代インド紀元前200年頃)の仏教経典雑宝蔵経』の説話に原点があると柳田邦男の著書「親棄山」に指摘されている[要出典]。7世紀に始まる日本の古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減など保護がされていて、法制にも棄老はない。このため、個人的な犯罪行為ということになるが、村落という狭い共同体における掟であったのか歴史研究家によって見解が分かれる。なおいくつかある棄老伝説における姨捨山は長楽寺境内の姨岩のこととして語られている話(学説ではない)もある[要出典]

姨捨伝説については深沢七郎の『楢山節考』(1956年)にも取り上げられている。また柳田國男の『遠野物語』(111話)にはデンデラ野へ棄老するという風習が紹介されている。

大和物語』(950年頃成立、156段)[3]が姨捨説話の初見であり、世阿弥謡曲1363年)にも取り上げられているほか『更級日記』(1059年頃)、『今昔物語集』(1120年頃以降)、『更科紀行』(1688年)でも言及されている。 このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。

文化財

  • 姨捨(田毎の月) - 国の名勝。長楽寺境内、四十八枚田、姪石付近の棚田の3か所が指定対象になっている。
  • 姨捨の棚田 - 名勝指定地を包含する64.3ヘクタールが重要文化的景観として選定。

関連項目

脚注

  1. ^ [公民館報ちくま 平成23年4月1日] 千曲市公民館運営協議会
  2. ^ 千曲市観光ガイド
  3. ^ 『日本古典文学全集』(小学館)での段数。

外部リンク