天野勝
Masaru Amano | |
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基本情報 | |
名前 | 天野 勝 |
生年月日 | 1942年8月9日 |
没年月日 | 2006年7月28日(63歳没) |
身長 | 175 cm (5 ft 9 in) |
体重 | 75 kg (165 lb) |
出身地 | 広島県広島市 |
経歴 | |
成績 | |
優勝回数 | 日本ツアー:3勝 |
初優勝 | ゴルフダイジェストトーナメント(1978年) |
2011年9月3日現在 |
天野 勝(あまの まさる、1942年8月9日 - 2006年7月28日)は、広島県広島市出身のプロゴルファー。
来歴[編集]
広島商科大学商学部商業学科卒業後は東京で就職し、実業団の卓球の選手であったが、将来への不安から25歳で会社を辞め、何か他のスポーツをやろう、と考えていた時たまたまゴルフと出会う。
天野は「卓球のボールより大きい更に止まっているボールをなぜみんなうまく打てないんだろう」と思ったのがきっかけでゴルフを本格的に始め、世田谷区八幡山のゴルフ練習場で働きながらゴルフに打ち込み、独学で練習を重ねる。
ゴルフを始めた時には2番アイアン1本で練習し、後にアイアンは全て打てるようになった[1]。
1972年に4回目の挑戦となったプロテストに29歳で合格し、その後は陳清波(中華民国)に師事。
1978年のゴルフダイジェストトーナメントでは通算8アンダーで前田新作・尾崎将司を抑えてプロ入り7年目での初優勝を飾り[2] [3]、1979年の関東オープンでは通算10アンダーで新井規矩雄・森憲二・尾崎将を抑えて優勝を決める[4] [5]。
1979年の太平洋クラブマスターズでは初日に6アンダーで首位に立ち[6]、2日目の18番ではあわやイーグルとなるアプローチ・ショットを決め[7]、最終的には鈴木規夫、トム・ワトソン&ロッド・カール&ビル・ロジャース(アメリカ)に次ぐ5位[8]に入った。
日本プロマッチプレーでは1979年の青木功との1回戦は序盤に2アップを許しながら追い付いて18番までもつれこませ[9]、1980年は2回戦で島田幸作と接戦を演じた[10]。
1981年はオフに関節リウマチでほとんど練習が出来ず諦めたこともあったが、日本プロでは2日目に65で回って中嶋常幸と共に2位に着け、ピンの位置を難しくした3日目には各選手がスコアメークに苦しむ中で抜け出す[11]。10番までに3バーディーで通算10アンダーとし、そのスコアを維持して上位の崩れもあって首位に立った[11]。最終日には崩れ、前半を終わって2ボギーを叩き、1バーディーの青木に並びかけられる[11]。天野は14番でダブルボギーとし勝負がつき、76を叩いて3位に終わった[11]。
1982年のフジサンケイクラシックでは2日目に最終18番で絶妙のアプローチを披露し、5アンダーで単独首位に立つ[12]。
1983年の群馬オープンでは2日目に68をマークして首位に立ち[13]、最終日には矢部昭・泉川ピート・新関善美・金子柱憲・陳健振(中華民国)を抑えて優勝[14]。
1989年のハワイパールオープンで10アンダーのトップでスタートしたが、最終日はショット、パットとも不調でスコアは伸びず最終日は3オーバーで終了し、デビッド・イシイ(アメリカ)に6打差付けられての3位[15]に終わった。
1991年の関東オープンでは初日4アンダーで2位に着け、2日目は尾崎健夫・飯合肇・真板潔・川岸良兼と並んでの4位タイであった[16]。
1992年にはシニアのデビュー戦優勝を飾り、2ヶ月後には3週連続優勝というシニア記録を樹立、デビューから6試合で4勝するという快進撃で年間7勝のシニア年間最多優勝記録を作ると同時に同年の賞金王に輝いた[17]。
1995年には台湾シニアオープンでも優勝し、日本シニアオープンでは3日目には前日首位の青木功を逆転して単独首位になり[18]、最終的には青木の逆転2連覇許すも3位[19]と健闘。同年にはアメリカに渡り、USシニアツアークォリフィング・スクールを受験し日本人選手として初のトップ合格し、1996年のUSシニアツアーに挑戦したが、ランキング31位までに与えられるシード権獲得はならなかった[17]。1996年以降3年間USシニアツアーに本格参戦し、最高位は4位であった。
60歳になってグランドシニア入りした2002年は日本プログランドシニアで久々の優勝を飾ったほか、オールドマンパーではプレーオフで敗れたものの2位になって気を吐いた[17]。
2003年はシニアツアー全6試合に出場し、予選落ちがなく賞金ランク29位でシード権を獲得[20]。
シニア12年目を迎えた2004年は、優勝はなかったもののアデランスウェルネスオープンで8位と気を吐き、賞金ランク26位となりシード入りを果たしている[21]。
2005年も末期がんと闘病中ながらツアーに参加していたが、64歳の誕生日を迎える2週間前の2006年7月28日、肝癌のため死去。
優勝歴[編集]
- レギュラー
- 1978年 - ゴルフダイジェストトーナメント
- 1979年 - 関東オープン
- 1983年 - 群馬オープン
- 1986年 - 伊香保国際オープン
- 1990年 - ミズノTOKYOオープン
- シニア
- 1992年 - 関東プロシニア、ミズノシニア、ヤナセカップ、第一生命カップ、JAS CUPシニア、名古屋テレビカップ、緑営グループ杯シニア
- 1993年 - 関東プロシニア
- 1994年 - HTBシニアクラシック
- 2002年 - 日本プログランドシニア
- 海外
- 1995年 - 台湾シニアオープン
著書[編集]
- コーチいらずのスピード上達法―基本スウィングとクラブ別の打ち方・攻め方 (アサヒゴルフ ライブラリー)、廣済堂出版、1994年1月1日、ISBN 4331350991
脚注[編集]
- ^ 【通勤GD】迷ったとき、ユハラに帰れ! Vol.14 14本はアイアン基準で選ぶんだ! ゴルフダイジェストWEB
- ^ 1978年10月22日 天野勝が初優勝 ゴルフダイジェスト最終日
- ^ 天野勝(フリー) 男子プロゴルファー ゴルフダイジェスト 最終日 プロ入り7年目、初笑顔(著作権・スポニチ)
- ^ 1979年09月23日 天野勝が優勝 関東オープンゴルフ最終日
- ^ 1979年09月23日 笑顔の天野勝 関東オープンゴルフ最終日
- ^ 1979年11月15日 首位に立った天野 太平洋クラブ・マスターズ
- ^ 天野勝(フリー) 男子プロゴルファー 太平洋クラブ・マスターズゴルフ 第2日(著作権・スポニチ)
- ^ 毎日新聞縮刷版p297 平成元年11月8日朝刊21面
- ^ 第5回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1979年)
- ^ 第6回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1979年)
- ^ a b c d 第49回日本プロゴルフ選手権(1981年)
- ^ 天野勝(フリー) 男子プロゴルファー フジサンケイ・クラッシックゴルフ 第2日(著作権・スポニチ)
- ^ 朝日新聞縮刷版p642 昭和58年7月17日朝刊16面
- ^ 朝日新聞縮刷版p676 昭和58年7月18日朝刊18面
- ^ ハワイパールオープン
- ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】横浜カントリークラブ。大好物のコーライグリーンを手玉に金子柱憲ツアー初優勝。1991年関東オープン
- ^ a b c 2003年シニアプロフィール
- ^ 1995年11月25日 首位の天野と2位青木 日本シニアオープン第3日
- ^ 1995年11月26日 青木が逆転で2連覇 日本シニアオープン最終日
- ^ 2004年シニアプロフィール
- ^ 2005年シニアプロフィール
外部リンク[編集]
- 天野勝 - 日本ゴルフツアー機構のプロフィール