多号作戦

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多号作戦(たごうさくせん)は、太平洋戦争大東亜戦争)で日本海軍の実施したレイテ増援輸送作戦のこと。主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。1944年(昭和19年)10月末から12月中旬までレイテ島への増援部隊輸送を第9次作戦まで繰り返した。

背景

連合艦隊からの報告ではレイテ沖海戦の戦果は空母7隻を撃破というものだった。先に行われた台湾沖航空戦の戦果報告もふまえアメリカ軍兵力は正規空母3隻、他に護衛空母等であろう、と海軍部の判断は楽観したものになった。これを受け陸軍も困難ではあるが戦局は日本側に有利と見ていた。そこで大本営第1師団第26師団第68旅団ルソン島からレイテ島へ増援し、レイテ島で連合軍を一気に打ち破ろうと計画した。

概要

1944年(昭和19年)10月29日、レイテ島増援輸送作戦(多号作戦)が発動される。この計画は第2次と第3次作戦からなり、10月下旬から11月上旬までに実施、レイテ島の米軍飛行場が本格始動する前に速やかに輸送作戦を行うことを考えていた。なお作戦発動前にレイテ増援第1陣としてミンダナオ島カガヤンからの増援を既に行っていた。第2次作戦では第1師団のレイテ島オルモックへの輸送に成功した。

11月4日に改めて第3次作戦から第7次作戦までが発令された。この計画では第3次作戦で主に兵站部隊を、第4次作戦で第26師団を輸送し、第5次作戦以降は第68旅団を輸送する計画だった。第3次作戦は船団が全滅し失敗、第4次作戦は人員の輸送のみ成功だった。そこで第5次以降は軍需品の輸送に切り替えられた。またマニラ空襲や本作戦での喪失により護衛に使える駆逐艦は桑、竹のみという厳しい状況となっていた。第5次作戦は失敗、第6次作戦は一部揚陸に成功するも船団全滅、第7次作戦はほぼ成功した。

12月7日にアメリカ軍はオルモック南部に部隊を上陸させオルモック市内を目指した。そのため第8次作戦は揚陸地を変更、第9次作戦では陸上戦の中を強行揚陸という形となった。

第10次作戦も計画されていたが、12月13日にルソン島へ向かうアメリカ軍の上陸部隊が発見された(実際にはミンドロ島に上陸)。これを受け陸軍第14方面軍は輸送予定部隊をルソン島に配備した。14日に海軍側も第10次作戦の中止を決定し多号作戦は終了した。

作戦経過

太字の艦船名は作戦中の喪失を表す。

多号作戦発動以前

第1次輸送

レイテ島への増援第1陣はカガヤンからの2個大隊、2000名強であり、この輸送任務は第16戦隊の青葉鬼怒浦波の3隻に命じられた。そのため同戦隊はマニラ方面へ進出すべく10月21日にリンガ泊地を出発した。マニラ入港直前で青葉は雷撃を受け航行不能になる。そのため青葉をマニラに残し、2隻は翌24日マニラを出港し、カガヤンには25日1600に到着した。これより前、第1輸送隊(輸送艦第6号、9号、10号)と第2輸送隊(輸送艦第101号、102号)にもカガヤンからオルモックへの兵員輸送が命ぜられており、こちらは既に陸兵を乗せ25日朝にカガヤンを出港、オルモックに向かっていた。第16戦隊も直ちにカガヤンで兵員を搭載し1730にオルモックへ向けて出港した。翌26日黎明にそれぞれオルモックに到着し兵員を揚陸、第16戦隊は0500にオルモックを出発しマニラに向かった。続いて出発した第1輸送隊もマニラに向かい、残る第2輸送隊は次の輸送任務のためビサヤ地区に向かった。第16戦隊は同日1015から敵艦載機の攻撃を受け浦波は1224沈没、鬼怒は1400過ぎに航行不能となり1730沈没した。

第2次輸送

  • 第2輸送隊:輸送艦第101号、同102号

ビサヤ地区に向かっていた第2輸送隊の輸送艦第101号にはボホール島タガビラランから、また102号にはネグロス島バコロドからオルモックへの兵員輸送がそれぞれ新たに命ぜられた。102号はバコロドへ向かう途中で敵機の攻撃により沈没した。101号は陸兵を乗せ10月26日深夜にタガビラランを出発した。途中の空襲で艦長、航海長が重傷を負ったがそのままオルモックに向かう。28日早朝に揚陸は成功したが揚陸中に敵機約80機の空襲を受け沈没した。

第2次作戦

第3船団

  • 輸送艦第131号

独立速射砲大隊1個師団(約340名)と武器弾薬、糧食などを積み10月28日マニラを出港。途中3か所で仮泊し10月30日にオルモック到着、揚陸は成功した。帰途にB-24の爆撃を受けて航行不能となり、曳航されてマニラに帰港した。

第4船団

  • 輸送艦第10号、同6号、同9号

10月31日にマニラを出港。11月1日1415にオルモックに到着した。1415には揚陸を終了しマニラへ向け出発。輸送艦第10号、6号は2日午後に帰着した。9号輸送艦はセブ島から第35軍司令部を載せ2日0430に再びオルモックに到着した。マニラまでは後述の第2次輸送部隊に組み込まれ帰着した。

第2次輸送部隊

ルソン増援のため上海から到着した第一師団をマニラからオルモックに輸送する。10月31日にマニラを出港。途中空襲にあったが被害無く11月1日1830オルモックに到着、1900より揚陸を開始した。満月であるため、潮汐の干満差が大きく、揚陸には約24時間掛かる見通しだった[1]。翌2日に敵の空襲を受けたが味方戦闘機(四式戦闘機)の護衛もあり被害は無かった[2]。1305にB-24の24機などの攻撃を受けた。駆逐艦からの煙幕からはずれた能登丸が爆撃を受け沈没した[3]。ただし能登丸は馬32頭と若干の弾薬をのぞく90%の揚陸を終わっており[4]、他の船も最終的に金華丸97.5%、香椎丸、高津丸は100%の揚荷率をあげ、輸送作戦はほぼ成功した。11月4日、部隊はマニラに帰投した[5]

第4次作戦

第3次作戦より先に実行された。そのため本項目も先に記す。

  • 第6船団:香椎丸、金華丸、高津丸
  • 第1護衛部隊:沖縄、占守、海防艦第11号、同13号
  • 第1警戒部隊:霞、秋霜、潮、朝霜長波若月

第26師団主力を以下の艦艇で輸送する。11月8日にマニラを出港。途中空襲にあったが被害は軽微で11月9日1815オルモック着、揚陸を開始した。しかし事前に用意していた50隻以上の大発は台風の高波で多くが砂に埋もれ、揚陸には5隻しか使用できなかった。また艦艇搭載の大発も空襲により使えなくなっており、揚陸作業は難航した。翌10日1230頃マニラに向け出港した。人員は全て揚陸したが、兵器弾薬等の揚陸は若干にとどまった。出港直後にB-25、35機の空襲を受け高津丸、香椎丸が沈没、海防艦11号が航行不能のため味方により処分された。

第4船団

  • 輸送艦第10号、同6号、同9号

第1師団の残りを載せて11月8日にマニラを出港、9日1830にオルモックへ到着した。

第3次作戦

  • 第2船団:せれべす丸靑木丸三笠丸谷豊丸天照丸
  • 護衛部隊:駆潜艇第30号、同46号
  • 警戒部隊:島風浜波、初春、

糧食、弾薬等6000トン、兵站部隊2000名および第26師団(泉兵団)の一部を輸送する。計画では第4次輸送部隊がマニラ帰港後に出港する予定だったが、フィリピン周辺の天気予報は悪天候が続き、航空機の攻撃が出来ないと予想された。そこで悪天候が続くうちに輸送を終了させようと11月9日に急遽出港した。しかし予報は外れ天候は10日には回復する。航空機の援護の無いことが当初より危ぶまれていたがそのまま強行する形となった。出航後の10日未明にせれべす丸が座礁し、駆潜艇46号が警戒のため残った。本隊は途中で第4次輸送部隊とすれ違い警戒部隊の艦を一部交換する形となった。初春、竹は第4次輸送部隊に編入されマニラに引き返し、長波、朝霜、若月が第4次輸送部隊から本部隊に編入された。その結果、オルモック突入時の船団は以下の通りとなった。

炎上し沈没寸前の駆逐艦「若月」。
  • 第2船団:靑木丸三笠丸谷豊丸天照丸
  • 護衛部隊:駆潜艇第30号
  • 警戒部隊:島風浜波長波、朝霜、若月

11日1200にオルモック到着予定だったが、オルモック湾手前で0830から1140までに艦上機延べ347機の攻撃を受けた。駆逐艦は煙幕を張ったが輸送船は全船沈没した。続いて護衛、警戒部隊も攻撃され朝霜を除く島風浜波など全ての艦が沈没した。島風沈没により、座乗していた第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も戦死した。

第5次作戦

第5次作戦は第1輸送戦隊の艦艇により軍需品の輸送を計画した。

第1梯団

  • 輸送船:輸送艦第101号同141号同160号
  • 護衛艦艇:駆潜艇第46号

11月23日マニラを出港。24日カタイガンに待避していたが空襲により輸送艦は3隻とも沈没した。駆潜艇46号もマニラへの帰途、翌25日に被爆沈没し船団は全滅した。

第2梯団

  • 輸送船:輸送艦第6号、同9号、同10号
  • 護衛艦艇:竹

11月24日マニラを出港。25日にカマリンドケ島へ待避していたが、空襲により輸送艦6号、10号が沈没。9号は損傷により揚陸装置が故障、竹も損傷して、マニラに引き返した。『戦史叢書』では大河内長官の命令で帰投したとの記述があるが、竹の宇那木艦長は「輸送戦隊司令官より作戦続行命令が出たが独断でマニラに帰投した」と証言している[6]

第6次作戦

  • 輸送船:神祥丸神悦丸
  • 護衛艦艇:駆潜艇45号同53号哨戒艇105号

11月27日マニラを出港、途中空襲を受けたが大きな損傷無く28日1900にオルモックに突入した。弾薬250m3、糧食1100m3を揚陸した。しかし夜間に敵魚雷艇の攻撃を受け駆潜艇53号、哨戒艇105号が沈没、更に翌朝の空襲で神祥丸が炎上し擱座する。残った神悦丸と駆潜艇45号はマニラを目指したが30日にセブ島東方で遭難沈没し、船団は全滅した。

第7次作戦

第1梯団

  • 輸送船:陸軍SS艇3隻
  • 護衛艦艇:駆潜艇第20号

11月28日マニラを出港。29日マスバテ湾でSS艇1隻が座礁、残りの3隻は30日2300にイピルに到着し人員200名、糧食510m3、弾薬60m3、衛生材料45m3を揚陸した。12月1日0140に揚陸完了し2日に無事マニラに帰着した。

第2梯団

  • 輸送船:陸軍SS艇2隻

11月30日マニラを出港。12月1日パロンポン北方のシラド湾に到着した。

第3、第4梯団

  • 輸送船:輸送艦第9号、140号、159号
  • 護衛艦艇:竹、

12月1日マニラを出港。2日2330ころ、オルモックに突入した。翌3日0030ころ警戒中の、竹が米駆逐艦3隻、魚雷艇と交戦となった。駆逐艦クーパーを撃沈、アレン・M・サムナーを撃破、魚雷艇2隻を撃沈しモールを撃退したが、日本側も桑が沈没、竹も損傷した。このとき竹が魚雷により戦果をあげたのが、日本海軍水上艦艇最後の魚雷戦と言われている[7]。ただし、12月26日の礼号作戦でも魚雷は使用されている。輸送艦3隻と竹は12月4日マニラに帰着した。

第8次作戦

擱座した第11号輸送艦。
  • 輸送船:赤城山丸白馬丸第5真盛丸日洋丸
  • 護衛艦艇:、杉、駆潜艇第18号、38号、輸送艦第11号

第68旅団の主力約4000名を輸送する。12月5日にマニラを出港。当初は7日1730にオルモック到着の予定だったが当日米軍がオルモック南部に上陸。そのため揚陸地をサンイシドロに変更した、7日1000より擱座、揚陸を始めた。揚陸中に敵艦爆やB-24など30機の攻撃を受けて、人員は上陸したが物資は砲2門他の揚陸に留まった。輸送船4隻と輸送艦第11号は大破したため放棄され、残りの護衛艦艇5隻はマニラに帰着した。

第9次作戦

陸上からの砲撃によりオルモック湾で大破した第159号輸送艦。
  • 輸送船:美濃丸、空知丸、たすまにや丸
  • 護衛艦艇:夕月卯月、駆潜艇第17号、第37号
  • 輸送艦第140号、第159号
  • 輸送艦第9号(セブ島に向かうが途中まで同行)

輸送船には歩兵第5連隊を基幹とする高階部隊約4000名と兵器弾薬1200m3、糧食800m3を搭載、輸送艦第140号、第159号にはオルモック湾への逆上陸を目指す海軍特別陸戦隊約400名を搭載した。またセブ島へ輸送する甲標的2隻を載せた輸送艦第9号も途中まで同行した。12月9日に予定の1日遅れでマニラを出港。11日にパロンポン沖でF4U50機の攻撃を受け、たすまにや丸、美濃丸が沈没した。空知丸はパロンポンでの強行揚陸に作戦変更、卯月、駆潜艇第17号、第37号はパロンポンに残り空知丸護衛と沈没船の溺者救助に従事した。卯月はその後オルモックに向かったが敵魚雷艇の攻撃により沈没する[8]。残りの夕月、桐、輸送艦第140号、第159号は2200にオルモックに突入、強行揚陸を開始する。人員、戦車の全部と機材の半分を揚陸したが第159号は陸上からの砲撃で大破した。桐は12日朝、パロンポンに戻り陸兵を揚陸した。パロンポンにいた空知丸と駆潜艇2隻はそれより先に揚陸を終了しマニラに向かっており13日1500に帰着した。オルモックにいた夕月と輸送艦第140号は桐と合流し同じくマニラに向かったが途中でP-38など46機の攻撃を受け12日2027に夕月が沈没、桐も損傷をうけた。桐、輸送艦第140号は13日1900にマニラに帰着した。

第10次作戦

第10師団の1個連隊基幹と第23師団の1個大隊を12月14日マニラ発、レイテ島北西部のクラシアン岬に上陸させる計画を立案した。しかし13日に発見された敵上陸部隊が14日には北上を始めルソン島へ向かう公算が大きくなった(実際にはミンドロ島に上陸)。そこで第14方面軍は計画を中止、輸送予定部隊をルソン島守備の配置に就かせた。これを受け同日第10次作戦の中止が発令され、ここで多号作戦は終了した。

脚注

  1. ^ #特攻船団201-202頁
  2. ^ #特攻船団193頁
  3. ^ #特攻船団204-205頁
  4. ^ #特攻船団203頁
  5. ^ #特攻船団221頁
  6. ^ 「昭和19年11月~終戦時 T型駆逐艦(竹)戦誌」第12画像
  7. ^ 『艦長たちの太平洋戦争 続編』p117より。
  8. ^ 『写真日本の軍艦第10巻』による。

参考文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』(朝雲新聞社、1967年)
  • 宇野公一『雷跡!!右30度 特攻船団戦記』成山堂書店、1977年。  宇野は「能登丸」士官。
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
  • 岸見勇美『地獄の海 レイテ多号作戦の悲劇』(光人社、2004年) ISBN 4-7698-1172-1

関連項目