国庫

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国庫(こっこ)とは、国家財産権主体としてとらえた場合の呼称。に属する現金有価証券等を経理する制度組織国庫制度(こっこせいど)、国庫に属する現金を国庫金(こっこきん)と称する。狭義には現金出納としての国庫金をさすが一般には有価証券、物品や国有地などの国有財産を含める。また国が法令または契約に基づき、一般私人等から提出されて一時保管している現金(保管金、供託金)や、公庫から国庫に預託された業務上の現金は国庫金に含める。

財産権の主体としての国庫

国庫(こっこ)は、財産権の主体として国家を表すときに用いられる語である。

貯蔵庫としての国庫

紀元前3000年には寺院に貯蔵を目的とした倉庫が作られ始めたと考えられており、紀元前18世紀のハンムラビ法典には政府による貸付規定が見られる。古代ギリシアではデロス同盟の資金をデロス島に貯蔵していた。古代ローマはヴァレリススにより国庫をサトゥルヌス神殿に置く事を決め、その管理のために財務官(クァエストル)を設置した。前漢は国庫の運用として専売制を導入し、また物価安定と国庫運用のための均輸・平準法を採用した。インドでは最初の統一王朝マウリア朝の兵士がすでに国庫からの俸給により運用されていた。イスラムでは最初の王朝ウマイヤ朝第8代カリフのウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)がウマイヤ家の者が国庫から贈られた土地を返還させている。時代が下りオスマン朝の初期にはトプカプ宮殿のドームの間に国庫が設置された。

税制と国庫

租税#税金の歴史を参照

検察権と国庫

13世紀のフランスでは国王(国庫)の利益を擁護するために国王の代官(Procureur de roi)が設置され、罰金や財産没収の執行に当たった。国王権力の強大化にともない国家や社会の公益の擁護に任ずるようになり、16世紀には裁判所に附置され人民から告訴・告発を受けて犯罪捜査を行い、公益の代表者として民事訴訟に立会い、司法行政の事務を監督する権限を有するようになった[2]

ブランデンブルク・プロイセンでは15世紀に(記録への登場は1468年)選帝侯室裁判所に「国庫の代表者(Fiskal procurator)」がいた。彼は選帝侯の国庫上の利益(財政上の利益)に留意し高権が遵守されるようにし、特権収入の侵犯があればこれに介入してランデスヘルの封主権を代表する任務を与えられていた。

彼らは租税が正しく入金するように配慮しなければならず、しかも最も重要な国家的収入となっていたのが裁判所、とくに刑事裁判所の収入であって国庫の代表者はこれらが未収にならないよう配慮しなければならなかった。国王の裁判所が領主の裁判所に先を越される事の無いようにすることが大切であるとされた。これは一般原則があって、事件は最初に係属したところで審判されることになっていたからである。[1]

国家賠償と国庫

国家賠償の観点からは、1800年代の後半にフランスでコンセユ・デタ(行政裁判所)の判例によって公役務過失ないし危険責任の理論により、国家の賠償責任を肯定するようになる。1910年には、ドイツで官吏責任法が制定され国の代位責任が肯定されるようになった。1946年にはアメリカで連邦不法行為請求権法が制定され従来の主権免責が改正されたが、今日でも一部の州ではなお国家無問責の原則が維持されている[要出典]。イギリスでは1947年に国王訴訟手続き法が制定され、主権免責原則を放棄した。[2]

国債と国庫

国債の観点からは、君主が発行する公債と国家の公的債務が17世紀オランダで区別されるようになり、いわゆる国富のうちで現実に近代的国民の全体的所有にはいる唯一の部分としての国債[3]が成立した。

それ以前、中世イタリアのジェノバ共和国の議会は借金の元利支払のための税収を、投資家の組成するシンジケート(Compera)に預けた。1164年には11人の投資家によって11年を期間としたシンジケートが設定されていた。ヴェネツィア共和国の議会は1262年、既存の債務を一つの基金に整理し、債務支払いのために特定の物品税を担保に年5%の金利を支払う事を宣言したが、これは出資証券の形態を取り登記簿の所有名義を書き換える事で出資証券の売買が可能なものであった。中世イタリアの都市国家ではそれぞれの都市の基金が債務支払の担保にあてられた税を管理した。

北部ヨーロッパの領邦・諸都市では、11世紀末からの十字軍遠征の際に国王や貴族が土地を抵当に資金調達をおこなったが、債務弁済が滞り抵当権を得ようとする際に紛争が生じやすかったため、関税や物品税を担保にいれる年金型債券が発行された。ドゥエーカレーが1260年に最初の年金型債券を発行した。15世紀のネーデルランド諸都市ではこれら公債の売買のための銀行が設立された。

16世紀にネーデルランドは、神聖ローマ皇帝に代わり債券発行を代替し、その代わりに課税権や歳出権限を獲得していった。1522年にカール5世の摂政はネーデルランド連邦の属州議会に徴税権を委譲し、皇帝の保証によってではなく委譲された徴税権を担保に議会が債券を発行するよう説得した。1542年にハプスブルク皇帝は新税の導入も含めた徴税権とともに、歳出についての完全な裁量権を担保に債券発行を求めた。1585年にアントウェルペンリヨンがスペイン軍に攻め落とされたため商慣行はアムステルダムに引き継がれたが、18世紀にはオランダ東西インド会社の株式と社債や、連邦政府債、各州の公債に加え1719年にはイギリスはじめ諸外国の債券と株式が上場された。1747年には国内の株式と債券で28銘柄、外債16銘柄、1783年には国内80銘柄、外債100銘柄に及んだ。[4]

近代思想と国庫

近代法治国家思想においては、法治国家の前段階として、警察国家を位置づける。警察国家とは、絶対君主制国家の内政面を指す。警察国家では、君主は法的拘束を受けず、人民は法的救済を認められないとされた(国家無問責の原則)。そして、法の規制を受けない公権力の主体としての国家と対比して、私法の適用を受ける財産権の主体としての国家を特に国庫と呼んだ。「公権力の主体としての国家」も「財産権の主体としての国家」も、国家という一つの人格の両側面に過ぎない。

もっとも、現在も法令に国庫の語が用いられる例は多い(憲法49条)。これは、便宜上、財産権の主体としての国家を呼ぶために用いられるものであって、端的に「国」の語を用いることも多い(憲法17条会計法34条2項など)。

国庫制度

国庫制度(こっこせいど)は、国に属する現金や有価証券等を経理する制度、組織のことである。また、国庫に属する現金を国庫金と称する。

国庫制度の態様

国庫制度のかたちは、経済社会や行政・財政制度などの歴史的経過に応じて、国ごとに異なっているが、金庫制度金庫制)と預金制度預金制)に大別できる。

金庫制度(金庫制)とは、国庫金を他の資金とはまったく切り離して管理する国庫制度をいう。金庫制度には、国が直接出納業務を行う国有金庫制度固有金庫制)と、中央銀行などの特定の金融機関に出納業務を委託する委託金庫制度委託金庫制)とがある。

これに対して、預金制度(預金制)は、国庫金を預金として銀行に預け、他の資金とともに経理され、国は返還請求権(預金債権)のみを持つ国庫制度である。預金制度は、中央銀行預託に限るものと、市中銀行預託を併用するものとに分けられる。預金制度は、金庫制度に比べると、巨額に上る国家資金とその他の民間資金との調整が容易であり、通貨政策も実施しやすくなる。そのため、現代国家では、金融制度の整備とともに、預金制度に移行するのが一般的である。

日本における国庫制度

日本において、国庫制度を所管する官庁財務省(理財局国庫課など)である。現在、日本の国庫制度は、預金制度を採用し、国庫金の取り扱いは日本銀行に統一されている(国庫統一主義)。この預金制度と国庫統一主義(国庫統一の原則)が、現行の日本の国庫制度の二大原則である。

国庫金は、原則として日本銀行に預けられる。国庫金の支払いについては、従来、原則として日本銀行を支払人とする小切手を振り出し、その小切手が国の預金から引き落とされる仕組みをとった。近年は、官庁会計事務データ通信システム(ADAMS)を用いて、日本銀行に指図することにより、日本銀行が国の預金から金融機関の当座預金を介して払い出す仕組みが原則となっている。平成18年度に日本銀行が取り扱った国庫金の支払は2.7億件、1,046兆円。同じく国庫金の受入は1.7億件、1,045兆円にのぼる。[5]

日本銀行に対する国の預金は政府預金と呼ばれる。政府預金のほとんどは当座預金であり、他に別口預金、指定預金などに分類される。

国庫金には、一般会計及び特別会計の手許現金のほかに、公庫の預託金などが含まれる。

沿革

明治初年に新政府が成立した当初は、政府部内に出納機関を設ける国有金庫制度を採り、実際の現金の取り扱いを行う補助機関には民間の為替業者をあてていた。1872年(明治5年)からは第一国立銀行などの市中の金融機関に取り扱わせ、1882年(明治15年)に中央銀行たる日本銀行が創設されたのを機に、翌年からはもっぱら日本銀行を委託先機関とした。

1890年(明治23年)に会計法(いわゆる明治会計法)が施行され、政府は大蔵省金庫局を廃止して政府自らが国庫金の出納保管を行うことをやめた。そして、国庫金の出納保管する金庫を日本銀行に置き、国庫金の出納保管事務の全てを日本銀行に委託した(委託金庫制度への移行)。日本銀行は、国の機関として国庫金の出納保管を行うべきこととされた。

1922年大正11年)4月、新たな会計法(いわゆる大正会計法)の施行により、政府は日本銀行を金庫とすることを止め、改めて日本銀行に国庫金の出納の事務を取り扱わせることとした。また、これにより日本銀行が受け入れた国庫金は、日本銀行に対する政府の預金とすることが定められた(預金制度への移行)。第二次世界大戦後の1947年昭和22年)4月に施行された現行の会計法でも、日本銀行に国庫金の出納事務を取り扱わせ、預金制度が採用されている(会計法34条)。

国庫収支

国庫金の収支を国庫収支という。国庫収支は、その受払の相手方により、国庫内振替収支(国庫金を構成する一般会計や特別会計の間での国庫金の振り替えに伴う受払)、国庫対日銀収支(国庫と日銀との受払)、国庫対民間収支(国庫と国民等との間の受払)の3つに分けられる。このうち、国庫対日銀収支、国庫対民間収支により、国庫金の残高は変動する。特に、国庫対民間収支は、国民経済に対して大きな影響を与えるため、極めて重要な指標である。なお、統計では、国庫対民間収支にいくつかの調整を加えた財政資金対民間収支の方が多く用いられる。

関連項目

脚注

  1. ^ 内田一郎「ドイツ検察 制度の成立」早稲田法学三九巻二号(一九六三年)
  2. ^ 国家賠償法その1甲斐素直[1]
  3. ^ 酒井昌美「物象化生成過程的資本原蓄とアムステルダム」帝京経済学研究第35巻第 1号
  4. ^ 富田俊基「国債の歴史」東洋経済新報社ISBN:4492620621
  5. ^ 教えて!にちぎん「国庫金とは何ですか?」、日本銀行

参考文献

外部リンク