剣晃敏志

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剣晃 敏志(けんこう さとし、本名・星村 敏志、1967年6月27日 - 1998年3月10日)は、大阪府守口市出身で高田川部屋の元大相撲力士。最高位は小結。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。全盛期の体格は191cm、150kg。

来歴

入門前

1967年6月に、大阪府で繊維業を営んでいた家の2人兄弟の次男として生まれた。しかし2歳の時に父親を亡くし、母親の手一つで育てられた。庭窪中学校では柔道を習っており、母校の先輩でもある高田川親方(元大関前の山太郎)を紹介されたが、「まだ遊びたい」として定時制の大阪府立守口高等学校へ進学した。

しかし守口高校では1年で退学し、セールスマンなどのアルバイトを務めていた。その後盲腸の手術のために入院した際、高田川部屋の体験入門の様子を撮影した写真を見て、高田川部屋に入門した。

剣晃の四股名は、不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願ったもの[1]で、行司の木村和一郎が命名した。なお、「」という字は「折れるもの」として不吉な意味合いがあるため、四股名を付ける時に高田川から止められたものの、剣晃は頑として譲らず「折角和一郎さんが一生懸命に考えて名付けてくれた四股名だから」と、一生その四股名で通していた。

角界のヒール役として

上位力士相手にも容赦ない張り手をかますなど闘志溢れる相撲が取り口で、自らヒールを公言していた。特に1993年3月場所での、対浪乃花教天戦の張り手合戦は有名である。さらに大関・貴ノ浪貞博には圧倒的に強く、「貴ノ浪の最大の天敵」とも言われていた。差し身が上手く根は左四つだが、右四つでももろ差しでも相撲が取れて、投げや吊り、寄りにも鋭さがあった。

大相撲の愛好家であるデーモン閣下及び尾崎亜美からは、その悪役のイメージから「角界(土俵)のならず者」とも呼ばれていた。1997年1月場所後には、相撲雑誌の企画でデーモン閣下と剣晃の対談が実現し、その時に剣晃自らデーモンに対して、「そのニックネームを変えて欲しいんですがね…」と苦笑しつつ要望を申し入れていた(後日デーモンは、剣晃の別のあだ名を「土俵の天然記念物」と名付けている)。それでも、そのイメージとは裏腹に母親思いの上、若い者からの人望はとても厚く、存命当時から在籍している若手の力士達は、剣晃を目標にしている力士として挙げることが多かった。さらに高田川親方も、部屋の後継者にすることを考えていたといわれる。

少しずつ番付を上げて、最高位の小結を2場所(1995年5月場所・同年9月場所)務めたほか、三賞は殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞している。また、1993年1月場所後に曙太郎横綱に昇進してからは、同じ高田川部屋の鬼雷砲良蔵と共に、曙の横綱土俵入り露払いまたは太刀持ちをよく務めていた。

30歳で現役死

しかし、幕内で活躍中だった1996年11月場所辺りから体調を崩し、原因不明の高熱と貧血に悩まされ、治療を続けながらも出場を続けていた。1997年3月場所に入ると急激に体重が痩せてしまい、120kg台にまで落ちた。次の1997年5月場所には体調が一時的に回復し、前頭11枚目の地位で千秋楽に8勝7敗と勝ち越したが、これが生涯最後の出場場所となった。

剣晃は1997年5月場所後、大阪市内の病院に入院する。その後も剣晃は、初土俵以来初めての休場となった同年7月場所以後、一度も出場が無いまま全休を続けたために、番付は幕内から十両を通り越し幕下の地位まで急降下した。この入院後の検査の際に、病名が「汎血球減少症[2]と判明。抗がん剤など投薬の影響により、剣晃の髷は全て抜け落ちてしまっていた。

そして、地元の大阪で開催された1998年3月場所は幕下55枚目まで下がっていたが、同年3月場所の3日目だった3月10日、母と兄が見守る中で汎血球減少症による肺出血のため、30歳の若さで現役死した。剣晃の生涯最後の言葉は「母ちゃん、眠りたい…」だったという。その余りにも早過ぎる死に、剣晃の親族や高田川部屋の弟弟子たちは皆、葬儀の席で涙を流し続けていた。特に高田川親方は剣晃の遺影に向かって「剣晃、俺はまだ死んだとは思ってない!」と叫びながら号泣していた。

前述の通り、「剣」の字は不吉な意味合いがあるとして力士の四股名に使うことは避けられる傾向にあるが、剣晃は最後まで自分の四股名に強くこだわり続けていた。その剣晃が30歳で病死してからは、以前にも増して「剣」の字を四股名に使うことは避けられるようになった(死後に誕生した力士では2012年5月場所まで3人のみで関取のみに限ると、剣武輝希のみが該当。五剣山博之ともう一人の力士は剣晃の死後も改名せず使い続けた)。

ちなみに、幕内を務めた経験が有る力士で現役中に夭折したのは、1990年2月の龍興山一人以来(元西前頭10・22歳没、没後最高位東前頭5)だが、奇しくも剣晃と龍興山とは同じ大阪府出身で、さらに1967年6月生まれの同級生だった。ほか1967年度生まれで病死した元幕内力士は、1999年12月の大翔鳳昌巳(元小結・32歳没)と2009年6月の大輝煌正人(元東前頭15・41歳没)がおり、同年度生まれの幕内力士7人中4人が2009年の時点で既に故人となっている。

主な成績

  • 通算成績:411勝410敗59休
  • 幕内通算成績:181勝224敗15休 勝率.447
  • 幕内在位:28場所
  • 三賞:殊勲賞1回(1995年7月場所)、敢闘賞1回(1996年1月場所)
  • 金星:2個(曙1個、貴乃花1個)

場所別成績

剣晃 敏志
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1984年
(昭和59年)
x x x x x (前相撲)
1985年
(昭和60年)
西序ノ口35枚目
6–1 
西序二段90枚目
4–3 
東序二段66枚目
3–4 
東序二段83枚目
4–3 
西序二段69枚目
3–4 
西序二段82枚目
3–4 
1986年
(昭和61年)
東序二段98枚目
6–1 
西序二段30枚目
2–5 
西序二段59枚目
5–2 
西序二段13枚目
4–3 
西三段目89枚目
2–5 
東序二段11枚目
5–2 
1987年
(昭和62年)
西三段目79枚目
4–3 
東三段目56枚目
2–5 
東三段目82枚目
5–2 
西三段目54枚目
5–2 
西三段目32枚目
3–4 
東三段目51枚目
4–3 
1988年
(昭和63年)
西三段目37枚目
5–2 
西三段目11枚目
5–2 
西幕下49枚目
3–4 
西三段目3枚目
4–3 
東幕下52枚目
3–4 
西三段目3枚目
4–3 
1989年
(平成元年)
東幕下49枚目
3–4 
東幕下59枚目
4–3 
西幕下44枚目
5–2 
西幕下25枚目
4–3 
西幕下17枚目
5–2 
東幕下7枚目
3–4 
1990年
(平成2年)
西幕下11枚目
3–4 
西幕下18枚目
2–5 
西幕下38枚目
5–2 
西幕下25枚目
4–3 
西幕下19枚目
5–2 
西幕下7枚目
4–3 
1991年
(平成3年)
東幕下3枚目
5–2 
東十両12枚目
5–10 
東幕下4枚目
5–2 
東十両13枚目
8–7 
東十両8枚目
9–6 
東十両4枚目
9–6 
1992年
(平成4年)
東十両筆頭
6–9 
東十両5枚目
8–7 
西十両2枚目
9–6 
西前頭14枚目
3–12 
東十両6枚目
8–7 
西十両3枚目
8–7 
1993年
(平成5年)
東十両2枚目
9–6 
西前頭14枚目
10–5 
東前頭6枚目
5–10 
東前頭13枚目
9–6 
東前頭4枚目
7–8 
東前頭5枚目
7–8 
1994年
(平成6年)
東前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
9–6 
西前頭2枚目
4–11 
西前頭10枚目
9–6 
西前頭2枚目
4–11 
西前頭8枚目
8–7 
1995年
(平成7年)
東前頭4枚目
5–10 
西前頭7枚目
10–5 
西小結
5–10 
東前頭4枚目
11–4
西小結
6–9 
東前頭筆頭
5–10 
1996年
(平成8年)
東前頭5枚目
8–7
東前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
6–9
東前頭8枚目
9–6 
東前頭2枚目
4–11 
東前頭6枚目
8–7 
1997年
(平成9年)
西前頭2枚目
6–9 
東前頭5枚目
4–11 
東前頭11枚目
8–7 
西前頭6枚目
休場
0–0–15
西十両筆頭
休場
0–0–15
西十両13枚目
休場
0–0–15
1998年
(平成10年)
西幕下15枚目
休場
0–0–7
東幕下55枚目
引退
––[3]
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注

  1. ^ かねてから健康を気遣っていた剣晃は、巡業先へ大量の青汁を作って持ち込み健康管理に努めており、このことは存命中当時から大変に有名であった。
  2. ^ この病気は白血病の一種で、当時の日本ではまだ4例しか報告例が無い奇病だった。1997年の夏、剣晃の母は既に病院の医師から「残念ですが、息子さんは助かりません」と非情の宣告を受けていた。
  3. ^ 3月場所3日目の3月10日に死去

関連項目

外部リンク