二階堂氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。240f:55:c986:1:70cc:75a5:3c06:5d2a (会話) による 2015年2月19日 (木) 20:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎一族・主要家臣)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

二階堂氏
家紋
三つ盛亀甲に花菱
本姓 藤原南家工藤氏
家祖 二階堂行政
種別 武家
出身地 鎌倉永福寺周辺
主な根拠地 陸奥国岩瀬郡
支流、分家 薩摩二階堂氏武家
六郷氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

二階堂氏(にかいどうし)は、武家の一氏族。特に陸奥国岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。

概説

二階堂氏は藤原姓で、南家藤原武智麻呂の子孫を称している。工藤行政が文官として源頼朝に仕え、二階堂が存在した鎌倉永福寺周辺に屋敷を構えたので二階堂氏を称したという。行政には行光行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代中期に信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって信濃流庶流や行村を祖とする「隠岐流」を巻き込んだ執事職を巡る争い[1]が発生し、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった。[2]

二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した。

須賀川二階堂氏

鎌倉時代の二階堂氏から須賀川二階堂氏へ至る詳しい系譜は明らかではない。

文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主ともいわれている。

天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。

永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義息子を人質として送り講和した。

盛義の死後当主となった二階堂行親は夭折し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否。天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。

薩摩二階堂氏

薩摩国戦国時代の有力国人で後に島津氏家臣となった二階堂氏は、この一族の一部が鎌倉時代末期に所領の一部のあった薩摩国阿多郡(現鹿児島県南さつま市)に下向以後土着した流れで、この系統の末裔が自由民主党副総裁などを歴任した二階堂進であり、その住居が重要文化財に指定されている二階堂家住宅である。

また、嫡流を称する田布施郷士の二階堂氏と分流の加治木郷士の二階堂氏は島津綱貴側室を出した縁で城下士に転籍し、後に家老などの重役を輩出するようになっている。

出羽二階堂氏

六郷氏を参照。


二階堂氏当主

鎌倉時代

  1. 二階堂行政
  2. 二階堂行光
  3. 二階堂行盛
  4. 二階堂行泰
  5. 二階堂行頼
  6. 二階堂行実
  7. 二階堂行綱
  8. 二階堂頼綱
  9. 二階堂行忠
  10. 二階堂行貞
  11. 二階堂貞衡

一族・主要家臣

工藤氏)----工藤維遠工藤維兼工藤維行工藤行遠

系譜

脚注

  1. ^ 鎌倉年代記裏書によれば、正応3年(1290年)正月、鎌倉において当時の政所執事二階堂行忠の嫡孫・行貞に対する暗殺未遂事件が発生したという。当時、行忠は高齢(正応3年に死去し、行貞が執事職を世襲)で、その後継者の巡る事件とみられている。
  2. ^ 細川重男「政所執事二階堂氏の家系」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』(東京堂出版、1999年) ISBN 978-4-490-20375-2
  3. ^ 清水谷公知の子。

外部リンク