一貫道

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一貫道(いっかんどう)は、で発祥し、現在は台湾を中心に信仰活動を続ける宗教である。道教仏教儒教キリスト教イスラム教の教義を貫いて一つの宗教に統合するとし「一貫道」と称している。明明上帝(無生老母)を主神とする。

歴史

に起こった無生老母信仰の流れを汲み、居士仏教の一派である「先天道」を前身として、清で発祥した[1]。開祖は山東省出身の王覚一であり、先天道第14祖の姚鶴天に会い、西乾堂の弟子として学んだ[1]。王覚一は約10年間普及活動をした後、西乾堂を東振堂と改称し、先天道第15祖となった[1]。王覚一の死後、劉清虚が祖位を継承した[1]。道教・仏教・儒教・キリスト教・イスラム教の教義を統合する思想で、「吾が道、一を以て之を貫く」という論語(里仁編)の言葉に基づいて「一貫道」と称した。劉清虚の死後は、路中一が祖位を継承した。

占い師だった張天然が祖位を継承すると、古くからの信徒は一貫道から離散してしまったが、張天然は積極的に多くの仏堂を建立して布教し、一貫道の教勢を張った[1]1936年、張天然は日本スパイとの嫌疑をかけられ、国民政府に逮捕される事件が起きた[1]。その後も、張天然は積極的に普及したが、1947年成都で死去した。

中華人民共和国が成立すると、一貫道は反革命的な邪教(「反動会道門」)とされ、1950年から1951年にかけて組織は徹底的に弾圧・根絶された上に、信徒は国民党のスパイとして糾弾され、多くが殺害された為、難を逃れた信徒は香港へ逃避した[1]

1954年、師母・孫慧明が、香港から台湾に移住した為、台湾で盛んに活動するようになった。ただし当時の台湾(中華民国)では、宗教活動は制限されており、国民政府に公認されていた宗教は、9法人(道教、基督教、天主教、仏教、回教、巴哈尹教、天理教、理教、軒轅教)のみだったため、一貫道は台湾各地にバラバラに潜伏して地下活動をしていた[1]。そのため、基礎組、発一組、宝光組、文化組、慧光組、紫光組、常州組、金光組、浩然組、法一組、明光組、安東組、師兄派などの多数の各派組が存在する[1]

やがて台湾の民主化とともに思想・信仰の自由が進み、1987年1月、公式に台湾国内で解禁された。台湾以外にも伝道されており、基礎組によれば、香港・日本・韓国インドネシアシンガポールマレーシアブラジル米国フィリピンカナダオランダイギリスフランスに信徒が存在する。

教義

万教帰一を説き、明明上帝(無生老母)を最高神格とし、すべての宗教の神々の源とする。経典としては、既存の三教経典(道教・仏教・儒教の各種経典)と、教団独自の道内典籍を使っている。仏堂を宗教施設とし、特に道教の術が占める比重が大きく、扶鸞・借竅(降霊術)は神仙の霊験の顕化と信じる[1]。三網五常、四維八徳の実践実行を重視する[1]。また、布施を重視する為、金銭問題が多く、全一貫道内のトラブルの根源となっていて、金銭問題を理由に信徒が独立するケースも生じている[1]

至上の神は偶像化することができないとし、関聖帝君・斉公活仏・観音菩薩弥勒仏布袋)などの既存の道教・仏教の像を拝む以外には、仏堂では「老母灯」を点し、これを以て最高神の明明上帝(無生老母)を象徴している[1]

修身を重んじ、普く天道を伝えることを思想とする。入信(得道)にあたっては信徒2名の紹介と保証が必要で、秘密儀式を執り行う[1]。中でも三宝(点玄関、合同印、五字真言)が秘密教義であり、家族にも漏らしてはいけないとされる[1]

仏教の五戒に準じ、殺生・偸盗・邪淫・妄語・酒乱を禁じている[1]

青陽時代・紅陽時代・白陽時代と時代分類をし、青陽時代は東周以前の千五百年間であり、道は君主に在り、紅陽時代は東周から清までの三千年間であり、道は師儒に在り、白陽時代は民国から一万八百年間であり、道は庶民に在るとする。人間は世俗にまみれて本性を失い、罪障が重くなり、三期末劫の状態にある。しかし、三期末劫の衆生を救済するため、慈悲深い明明上帝(無生老母)は「先得後修」を以て広く方便の門戸を開いたので、衆生は老母に帰依できると説く[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「台湾一貫道の新しい歩み: 解禁と総会成立を中心にして」、篠原壽雄、駒澤大學文學部研究紀要 49, 1-130, 1991-03

関連項目