マニ教

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マニ教(-きょう、 摩尼教、: Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャマニ210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教

ユダヤ教ゾロアスター教キリスト教グノーシス主義などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)代表的な宗教とされてきたが、中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている。

教義

マニ教の教義は、ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義、さらに仏教道教からも影響を受けている。

ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ゾロアスター釈迦イエスは預言者の後継と解釈し、マニ自らも天使から啓示を受けた預言者であり、印璽を授かったと称した。また、パウロ福音主義に影響を受けて戒律主義を否定する一方で、グノーシス主義の影響から智慧と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。

マニ教の神話では、

  1. 原初の世界では光と闇が共存したが、闇が光を侵したため、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された。
  2. 光の勢力によって原人が創生されたが、原人は敗北して闇によって吸収された。
  3. その後、光の勢力は太陽神ミスラを派遣して、闇に奪われた光を部分的に取り返すことに成功した。
  4. 闇は手元に残された光を閉じ込めるために、人祖アダムとエバ(イブ)を創造した。

とされる。そのため、人間は闇によって汚れているものの、智恵によって内部の光を認識することができるとする。ここにはキリスト教の原罪やグノーシス主義の影響がみられる。 そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、光は地上に飛び散ったために、植物は光を有しているとみなした。そのため、斎戒・菜食主義を重視する。また、結婚(性交)は子孫を宿すことであり、悪である肉体の創造に繋がるので忌避された。

このように、マニ教の根幹はグノーシス主義に基づいた禁欲主義であり、肉体を悪とみなす一方で、霊魂を善の住処としたことが特徴となっている。

なお、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観を有しており、布教にあたっては経典のほかに宇宙図も使用していた。宇宙図は散逸したと見られていたが、2010年になって元代前後に書かれたと見られる宇宙図が日本で発見された[1]

マニ教の宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、預言者の印璽、断食月)は、後にムハンマドイスラム教の成立に影響を与えた。

歴史

マニ

マニの両親はユダヤ教新興教団に属しており、マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。その後、ゾロアスター教やキリスト教・グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を樹立した。24歳の時に啓示をうけ、開教したとされる。ペルシャ・バビロニアインド中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかった。

マニがサーサーン朝のシャープール1世に重用されると、ペルシャを中心に信者を増やしたが、その後サーサーン朝がゾロアスター教を国教と定めるとともに迫害された。マニ自身は、ゾロアスター教のマギカルティールに陥れられて殉教した(一説によると獄死した)。世界宗教の教祖としては珍しく、マニ自身は自ら経典を書き残したが、マニ著筆の経典は散佚している。

マニ教の拡大

ゾロアスター教による迫害・攻撃もあったが、信者はペルシャ国外で拡大・増加し、ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ帝国全域にまで拡大していた。中世初期の教父アウグスティヌスも、青年の一時期はマニ教徒であり、その後回心してキリスト教徒になった。中世の代表的な異端として知られる、現世否定的な善悪二元論にたつカタリ派(アルビジョワ派)は、マニ教の影響が見いだせるとする説もある。

また、西アジアから中央ユーラシアにも拡大し、ウイグルでは3代牟羽可汗の時代にマニ教が国教とされた。この時は反マニ教勢力の巻き返しにあい、その後弾圧を受けることになったが、7代懐信可汗によって再び国教化された。

においては694年に伝来して「摩尼教」と称し、景教ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教と共に、三夷教と呼ばれた。843年に唐の武宗によって禁止されたが、その後もマニ教は「明教」とも呼ばれ、仏教や道教の一派として流布し続けた。呪術的要素を強めたために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで言われ、信者は「喫菜事魔の輩」(菜食で魔に仕える輩の意)と呼ばれた。水滸伝がその活躍の舞台とする北宋方臘の乱は、マニ教徒によるものとする説もある。

宗教に寛容なにおいては、明教は福建省泉州浙江省温州を中心に信者を広げていた。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、朱元璋が建てたの国号は明教に由来したものだと言われているが、明代に明教は厳しく弾圧され、15世紀には姿を消した。しかし、中国においてマニ教・明教の系譜は、白蓮教や義和団を通じて19世紀末まで受け継がれていった。

福建省の晋江市には元代(1339年)に建立された草庵摩尼教寺が現存し、国家重要文化財に指定されている。家内安全・商売繁盛の御札が売られ、旧暦4月16日には摩尼光仏(マニ)の聖誕祭が行われているが、もはやマニ教本来の信仰とは全く関連がない。

マニ教は、西方伝道においてはイエス・キリスト福音を、東方への布教には仏陀の悟りを前面にするなど、各地域毎に布教目的で柔軟に変相したため、東西に発展した世界宗教となった反面、教義・経典が混乱気味となった。マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり、逆に他の宗教に吸収されるなどして、マニ教自身としての独自性を一貫して保てずに消滅してしまった側面がある。

20世紀に入り、トルファンアルベルト・グリュンヴェーデル率いるドイツの探検隊によりマニ教寺院及び写本や壁画などの関連資料が多数発見され、研究が進んだ。現在では、国際マニ教学会により研究が続けられている。

脚注

  1. ^ 国内にマニ教「宇宙図」 世界初、京大教授ら確認2010年11月4日閲覧、共同通信

参考文献

摩尼教文獻,紙本,卷軸。 尺寸: 26 x 150 cm 年代: 唐 開元十九年(公元731年)

関連項目

外部リンク