フィリピンの漫画

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本項ではフィリピンの漫画(フィリピンのまんが)について述べる。フィリピン漫画は英語から借用した「コミック」で呼ばれるが、タガログ語のような現地語の正書法にしたがって「komiks」と表記する[1]。コミックは1920年代から現在に至るまでフィリピン全土で読まれており、アジア漫画の研究者ジョン・A・レントは[2]、フィリピン・コミックがアジアの中でおそらく日本香港に次いで優れた才能と多様な題材の歴史を持つだろうと書いている[3]

フィリピン・コミックは20世紀前半にアメリカのコミック・ストリップ(新聞漫画)やコミックブックの影響を受けて始まった。広く読まれるようになったのは第二次世界大戦後のことで[4]、子どもだけでなく大人が読むメロドラマとして独自の発展を遂げた[5]。絵柄の面では太い描線で描かれた装飾的でバロックな感覚が特徴だとされている[5][6]。国民的な娯楽としての人気は1980年代にピークを迎えた。映画の原作となることも多く、政府による開発事業の広報や選挙キャンペーンの手段としても大きな影響力を持った[7]。20世紀後半にはテレノベラのようなマスメディアに押されて一般の関心を失ったが、2010年代半ばに復興期が訪れ、ジェリー・アランギランアーノルド・アーレ英語版バジェッテ・タン英語版カジョ・バルディッシモ英語版ら人気作家が台頭するとともにKomikon英語版のようなコミックコンベンションを通じたファンコミュニティが隆盛した[8][9]。ウェブ上で活動するフィリピン人の個人作家によるウェブコミックも国内外で注目を集めている。

歴史

発祥: 1930年代まで

ホセ・リサールが民話『サルとカメの人生(→Ang Pagong at ang Matsing or Si Pagong at si Matsingに描いた挿絵の一枚。

フィリピン固有のカートゥーン一コマ漫画)の起源は独立活動家ホセ・リサールにまでさかのぼるという説がある。リサールは私家版絵本を何冊も制作しており、フィリピン民話『サルとカメの人生』をスペイン語に翻訳して挿絵を付けた1885年の作品はよく知られている。言葉と絵の組み合わせ方はいろいろで、後世のコミックに近いものもあった[10]

多くの国々と同様、商業的な漫画は風刺雑誌の政治漫画から始まった[11]フィリピン総督領時代には Te con LecheEl tio verdades などの雑誌が、 米西戦争(1898年)と米比戦争(1899-1902年)を経てアメリカ植民地時代になると Lipang Kalabaw や『フィリピン・フリープレス英語版』などが発刊され、漫画によって宗主国や現地政府を激しく批判した[11][12]。初期の政治漫画の中でフィリピン国家はアメリカ政府を擬人化したアンクル・サムに言い寄られる初心な乙女 Filipinas として描かれるのが常だった。しかし『ジ・インディペンデント』誌でジョルジ・ピネダがフアン・デラクルス英語版というスリッパ履きの庶民男性を登場させるとそちらがフィリピンのシンボルとして一般化した[13]

フィリピン初の文芸雑誌である週刊誌『リワイワイ英語版』は1929年に初めてコミックストリップ(一般紙誌に掲載されるコマ漫画)を掲載した[14][11][15]。出版者ラモン・ローセスの下で弱冠18歳のトニー・ヴェラスケス英語版[16]が描いた Mga Kabalbalan ni Kenkoy は米国かぶれのフィリピン人男性ケンコイ英語版を主人公とする作品で[15][16][17]、4コマから始まってすぐにカラー1ページに拡大され[11]、同誌の他言語版に進出して人気を博した[18]。ケンコイの名は「道化者」という意味でフィリピノ語の語彙に定着し、21世紀までコミックや映像作品に顔を出し続けることになる[16]。ヴェラスケスはその後出版者として多くの作家に発表の場を与えたこともあって「フィリピン・コミックの父」と呼ばれている[19]

1930年代に登場した作品はほぼ例外なく米国の作品を手本にしていた[20]ホセ・サバラ=サントス英語版ポパイ風の作品『ルーカス・マラカス』や『ポポイ』で人気を集めた[21][22]フランシスコ・レイエス英語版の『クラフ英語版』はスペイン到来以前の時代にルソン島のジャングルで活躍するターザン風の男性が主人公だった[20][23]。『クラフ』はフィリピンで最初の冒険もので[24]、自国の神話や伝説、英雄譚を題材にした作品の先駆けでもある。西洋化の圧力にさらされているフィリピンにおいて、それらの疑似歴史的な冒険ものは人気を集め続けた[25]

太平洋戦争の間、マニラは1942年1月から日本軍の支配下に置かれた[26]。従軍宣撫班は出版を統制する一方、民心安定のためのプロパガンダにローセス一族が所有していた Tribune 紙を利用した[27]。はじめの2-3か月は『ローン・レンジャー』、『フリッツィ・リッツ英語版』、『ドナルド・ダック』のような米国作品が同紙に掲載され続け、コミックを求める読者に応えていた[28]。やがて日本人島田啓三による The Boy ‘Pilipino’(→ピリピノ坊や)、トニー・ヴェラスケスによる The Kalibapi Family(→カリバピ一家)[注 1]を始めとする新作漫画がそれらに取って代わった[30]。内容は検閲されており、日本語教育やラジオ体操のような皇民化事業[31]、あるいは物資欠乏を補う工夫が題材にされた[32]。ヴェラスケスの証言によると、この期間『リワイワイ』誌で比較的自由に「ケンコイ」も描き続けていたという[33]

黄金期: 1940-1950年代

第二次世界大戦後のフィリピン産コミックは一般紙誌に掲載されるコミックストリップから米国風のコミック誌に中心を移した[34]。大戦中にアメリカ兵はコミックブック(中綴じ32ページの定期刊行物)を駐屯地に持ち込んでおり、フィリピンの出版社はその形態を真似た36ページから45ページのコミック誌を刊行し始めた[4][21][35]。ただし米国とは異なり、内容は単一の作品ではなくアンソロジー形式が一般的だった[5]。その先駆けは1946年にヴェラスケスの主導で発刊された週刊誌『ハラックハック・コミックス英語版』である[18]。同誌は短命に終わったが、翌年にラモン・ローセスはヴェラスケスを編集長に据えてコミック出版専門のエース・パブリケーションズを設立し[36]、『ピリピノ・コミックス』を皮切りに『タガログ・クラシックス』など5誌を発行した[35]。発行部数は1万部から始まり最大で10万部を超えた。それらはいずれも隔週刊だったが、フィリピン・コミックの標準は時代と共に週刊へ、さらに週2回刊へと移り変わっていくことになる[37]。1950年ごろからほかの出版者がコミック出版に参入し始め、一般誌も漫画の増刊号を出すようになり、米国コミックの翻訳誌も登場した[37]。それらの多くが浮き沈みの激しい出版界から消えていくのをよそに、ローセスとその一族は後年までコミック界を牛耳る存在であり続けた[38]

フィリピン・コミックは1950年代に黄金期を迎え[37]、路上のニューススタンド英語版や雑貨屋(サリサリストア英語版)で売られる安価なコミックブックは一般大衆の生活の一部となった[4]。スーパーマーケットや書店で売られる『スーパーマン』、『アーチー』、『MAD』のような米国タイトルが中流階級以上に読まれていたのに対し[39]、国産コミックは間違いなく庶民のものだった[40]。基本的にタガログ語で発行されていたコミックは、フィリピノ語として公用語化されたタガログ語を広める役目も果たした[37]。コミックは基本的に現実を忘れるための娯楽であったが、1980年代にかけてストーリーが洗練され様々なジャンルが成立していくにつれて神話、伝説、長編・短編小説といった文学の役割を置き換えていくことになる[41]

この時期、フィリピンのコミック史で重要な役割を果たす作家の多くが表舞台に登場した[42]。第二次世界大戦のゲリラ戦士だったフランシスコ・コーチン英語版[24]はダイナミックかつ繊細な作画によってフィリピン・コミックの画風を確立し[4]、没後にフィリピン国民芸術家賞英語版を授与されている[43]ラリー・アルカラ英語版はフィリピンの日常をセリフのない群像として描いた一コマ漫画『スライス・オブ・ライフ』[44]などを56年にわたって描き続け、やはり国民芸術家の称号を与えられている[45]マース・ラヴェロ英語版はフィリピンの国民的スーパーヒーローであるダーナ英語版を作り出した[4][46]。ラヴェロが生み出したキャプテン・バーベル英語版ラスティックマン英語版[注 2]、人魚ジェズベル英語版、ユーモア漫画のボンジン英語版などは[4]21世紀にリメイクされて新世代の読者を獲得している[48]。ケンコイと同じように「ボンジン」の名は「うすのろ」の意味で一般名詞となっている(en:wikt:bondying)。ほかの作家としてはアルフレド・アルカラ英語版クロデュアルド・デル・ムンド英語版ネスター・レドンド英語版アレックス・ニーニョ英語版パブロ・S・ゴメス英語版ジェシー・サントス英語版らの名が挙げられる[42]

1954年に米国コミック界で「コミック倫理規定」が制定された翌年[49]、エース社の主導で「フィリピンコミック出版社・編集者協会 (APEPCOM)」が結成され、カトリック教会との協同のもと、過剰なセックス・ホラー・ギャング行為のような道徳を損なう堕落をコミック作品から排除する自主規制コードが制定された[42]。フィリピンのコミックは21世紀まで無邪気なユーモアや政治風刺の枠内にとどまり、攻撃的で下品な笑いを避けていくことになる[50]

米国への作家流出、戒厳令: 1960-1970年代

1963年に印刷業者のストライキによってエース社が倒産すると、同社に寄稿していた作家が次々に出版社を興し始めた[37]。ヴェラスケスはローセスの後援の下でGASI (Graphic Arts Services Incorporated) の経営者となり『キスラップ・コミックス』『パイオニア・コミックス』などを送り出した[51]。パブロ・ゴメスは1964年にPSGパブリッシングを、マース・ラヴェロは1970年にRARパブリッシング・ハウスを設立し、それぞれ複数の週刊タイトルを発刊した。ほかにも多くの出版社がコミック出版に参入したが、フィリピン経済の低迷もあって経営は安定しないことが多かった[52]。ラリー・アルカラはこの時期について、出版タイトルの増加とともに作品の質が落ち、黄金期が終わりを迎えたと回想している[37]

1960年代に登場したフィリピン独自のジャンルに「ボンバ英語版(→爆弾)」と「開発コミック(→developmental komiks)」がある[37]。泡沫出版社から刊行されるボンバ誌はポルノ・コミックやヌード写真、ときに政治的メッセージを収録した刊行物で、宗教界やフェミニスト団体から批判を受けつつも人気を保ったが[53][50]、戒厳令期間に取り締まりが強化されてなりを潜めた[50]。官民の機関が発行する開発コミックは家族計画についての意識向上を訴える内容で、人口抑制政策英語版の中で一定の効果があったと評価されている[42]。後には国営電力公社英語版が発行した原子力の広報コミック Napocor Nuklear Komiks や、ドラッグやアルコールの危険、反ルッキズムなどを題材にした開発コミックの例がある[54]

トニー・デズニガ(写真は2011年)。

1970年代にはフィリピン人作画家の米国進出が始まった。嚆矢となったのはニューヨーク在住のフィリピン人トニー・デズニガ英語版である。デズニガは1970年にDCコミックス(当時の社名はナショナル・コミックス)の編集者ジョー・オーランド英語版によって起用され、西部劇英語版ヒーローのジョナ・ヘックスを作り出したほか、ロマンス英語版ホラー戦記物のタイトルや『蛮人コナン』を手掛けて米国コミックに名を残した[55][56][57]。1971年、手ごろな報酬で雇える新しい才能を必要としていたDC発行者カーマイン・インファンティーノ英語版は、デズニガの勧めでフィリピンを訪問して作画家のスカウトを行った[55]。ネスター・レドンドとアルフレド・アルカラを始めとして延べ数十人のフィリピン人がデズニガの後を追うこととなり、米比のコミック界に一つの人口移動が生じた[55][57]。米国ペンデュラム・プレスの編集者ヴィンセント・ファーゴ英語版もまたネスター・レドンドを通じて多くのフィリピン人作画家にわたりをつけ、古典文学をコミック化するシリーズ Pendulum Illustrated Classics に起用した[58]

1972年にフェルディナンド・マルコス政権によって戒厳令が敷かれると、出版社はいずれも体制護持の姿勢を取ることを余儀なくされた。コミック界の自主規制コードは強化され、貧困や社会不安を描く作品は誌面から消えた[59]。一方でマルコス政権は政策PRに利用するためコミック誌を発行した[59]。フィリピンはそれまで東南アジア諸国の中では例外的に自由な政治風刺の風土を持っていたのだが[13]、政府に批判的な政治漫画家は排斥され始めた[60]。マルコスの影響下にある新聞雑誌には政治の要素のないユーモア漫画(ファニーズ)が載せられ、この時期特にそのジャンルが隆盛することになった[61]。ブラックリストに載せられた一人ノノイ・マルセロ英語版国営のメディア機関英語版の一員となることで検閲を逃れ、ネズミのイカボッド英語版を主人公とする漫画に密かに政治風刺を込めた[60]。1986年にマルコスが失脚すると、今度はメディア・コングロマリットがビジネスに不都合な作品を排除するようになり、風刺漫画に以前ほどの活気は戻らなかった[62]

1970年代のコミック界は、報酬水準の高い米国コミック[注 3]に人材を奪われたことや、政権とカトリック教会による「有害」コミック批判によって打撃を受けたのに加えて、国内経済の不況にも見舞われた[64]。弱小出版社が淘汰されていく一方、ラモン・ローセスが所有するGASIやアトラス社は成長を続けた。GASIの発行部数と収益は1975年から1978年までの間に4倍に増加した[59]

フィリピン・コミックでは長編連載(ノベラ)と短編(ワカサン)の両者が一般的だが[34]、1970年代には各誌の看板となる大長編(スーパーノベラ)が人気を集めた。スーパーノベラはファンタジーのジャンルが多く、中でも『アリワン』誌の Anak ni Zuma英語版 は突出した人気を誇り10年以上にわたって継続した[65]

日本からフィリピンへの買春ツアーが盛んだった1980年ごろには、日本人を主人公にした作品がフィリピン人作家によって描かれて日本語で出版される例もあった[66]

フィリピン・コミックの「死」: 1980-1990年代

フィリピン・コミックは1980年代に最盛期を迎えた。80年代半ばには週刊コミックブックが47誌刊行されており、全体で250万部から300万部が発行されていた。回し読みの習慣があるため読者数はその数倍に上り、これはすべての出版形態の中で最大の数字だった[67]。廉価なコミック誌を早いペースで大量に刊行する出版モデルはローセス一族が築いたもので、追随できる競合相手は少なかった[68]。ローセスはまた全国的な取次ネットワークを傘下に置いており、自社タイトルを優先的に流通させることができた[69]。1992年時点で市場にあった71誌のうち62誌がローセスの所有だった[68]。しかし寡占は作品内容の保守化を招いた。新しいアイディアは排斥され、古い作品の焼き直しが繰り返された[69]。クリエイターが限界まで制作スピードを上げたため作品の質も低下することになった。原作者(後に映画監督)カーロ・カパラス英語版は週刊ベースの作品(標準4ページ[70])を36本抱えていた時期があったという。ペン入れをアシスタントに任せることで週に19本描いていた作画家もいた[69]

1990年代に入ると経済・政治の混迷や自然災害によって家計が圧迫され、コミックの売上が低下した[69]。特に週刊誌を何年も買い続けなければストーリーが分からないスーパーノベラは低所得層の人気を失った[71]。またこのころ中産階級が台頭したことによりテレビやパソコンの普及が進み、コミックはビデオゲームやインターネット、あるいは海外コミックのような新しい娯楽との競争を強いられることになった[69]。優れた作家が他業種や海外に流れていたことや、印刷・製本技術が旧来のままだったことも悪材料となった。ある批評家は1990年代後半にローセス一族によるコミック市場の独占が崩れると、すべてが道連れになったと書いた[72]。世界的に見てもまれな長寿タイトルがこの時期いくつも廃刊になった。1950年前後にトニー・ヴェラスケスが創刊した『ピリピノ・コミックス』『タガログ・クラシックス』『エスペシャル・コミックス』『ヒワガ・コミックス』はこのころまでの累計で4誌合わせて11500号を数えていた[72]。フィリピン・コミックはこのとき「死を迎えた」と見なす論者が多い[73]。実際にコミック出版が完全に途絶えることはなかったが、ローセス一族の流通ネットワークが消失したことで産業規模は縮小した[74]。新聞連載作品『プガッド・バボイ英語版』を単行本化したポール・メディナ英語版のように自己出版英語版に乗り出す作家も多くなった[75]

新潮流と復興: 1990-2000年代

1968年生まれのジェリー・アランギランはフィリピン・コミック復興の先導者となった[76]

1990年代の初めに新しい世代の作家が少部数のコピー本で作品を発表し始め、それが新しい潮流となった。ジャンルとしては米国流のスーパーヒーローが主体で、大学祭のような場所で販売されていた[72]。それらのインディー作家が交流する小規模のコンベンションとして1994年に始まったアラマット・コミックスは[72]、やがてジェリー・アランギランの『ウェイステッド英語版』などを出版するようになる[77]。ほかにマンゴー・コミックスなどが設立され、コミック出版社の世代交代が進んだ[78]。ブジェッテ・タンの『トレセ英語版』のように、コピー本で発表された作品がコミック外の出版社によって再刊される例も多い[72]

米国コミック界で成功をおさめたフィリピン系移民ウィルス・ポータシオイメージ・コミックス創立者の一人)に触発されて米国を目指した若い作家は多かった[79]。ポータシオは1990年代前半に頻繁に祖国を訪れ、アラマットのグループなど地元作家と交流して助言を与えていた。また自身でもマニラにスタジオを設立してアランギランやレイニル・フランシス・ユーを雇用し、コミックブックのベストセラー Stone を刊行した[80]

グラフィックノベル(一般書籍と同じ判型の完結作品)は旧来のコミックブックに代わる有力な形式となった。内容はアンソロジー、連載作品の再録、書き下ろしなど多様である。アーノルド・アーレの『ミソロジー・クラス英語版』や『トリップ・トゥ・タガイタイ英語版』、カーロ・ヴェルガラ英語版の『ワン・ナイト・イン・パーガトリ』などの作品がコミック外の出版社から書籍化されている[81][82]クィアなスーパーヒーローを扱ったヴェルガラの「シャシャ・ザトゥルナ英語版」(初刊2002年)は映画化・ミュージカル舞台化されるヒットとなった[83][84]

日本の漫画アニメに影響を受けたコミック作品が出始めたのもこの時期である。フィリピンでは1970年代に中流階級の中でテレビの普及が進み、『ボルテスV』や『G-Force(ガッチャマン)』などの日本アニメが入ってきた。しかしマルコス政権が放映を規制したためアニメブームは失速した(規制の理由は諸説ある[注 4][87][85]。政変後の1980年代後半にアニメは復活し、『ドラゴンボールZ』『セーラームーンS』なども放映された[88]。しかし一般に浸透したのは1990年代後半のことである。人気コメディ番組『バブル・ガング』で『ボルテスV』のテーマソングが取り上げられたのをきっかけに、軍政の記憶と結びついた懐古的な同作のブームが起き、一部のマニア以外もアニメを視聴するようになった[88][85]

日本のサブカルチャーは従来のコミック読者よりも若い世代を捉えた[5]。2000年には『カルチャー・クラッシュ英語版[注 5]誌で質の高い日本漫画風の作品が発表され始めた[72][89]。同誌は資金難で長続きしなかったが人気は高く[89]、2007年には同じ版元からフィリピン民話を題材にしたシリーズ『マンガホリックス』も刊行された[72]。『クエスター』誌やノーチラス・コミックス社のような追随者も現れた[90]。スーパーヒーロー・コミックを出していたマンゴー・コミックス社は日本の少女漫画に影響を受けた『マンゴー・ジャム』を発刊した[72][91]。伝統ある児童誌『ファニー・コミックス』なども絵柄を日本風に移行させた[5][92]。これら、フィリピン人作家による「ピノイ英語版・マンガ」はコミック界のトレンドの一つとなり[93]comics, komiks, and manga(米国流、フィリピン流、日本流の作品)が並び立った[94]

日本政府は漫画を有力な文化輸出品とみなしてアジア諸国で普及活動を行っており、フィリピンも例外ではない[81]。日本漫画の受容が賛否両論を伴っていることもまた他国と同様で[81]、アランギランは国内の職業的なマンガ作家が日本の文化的なアイデンティティと結びついたスタイルを模倣して「フィリピン産」と呼んでいると批判している[83][95]

ジェーン・デレオン英語版が演じた2022年のテレビドラマ版英語版ダーナ。フィリピンの田舎に住む少女が変身するスーパーヒーローである[96]

新しい動きの一方で古典的なフィリピン・コミックを再生させる取り組みも行われている。マンゴー・コミックスは2003年ごろに古いスーパーヒーローのダーナ、ラスティックマン、キャプテン・バーベルを復活させた[48]。マンゴーはニューススタンドではなくコミック専門店を販路として高所得層に向けたマーケティングを行っていたが[96]、2007年には映画監督で原作者のカーロ・カパラスを押し立てて多くの大衆向け週刊コミックブックを創刊した(数カ月で撤退)[97]。カパラスはフィリピン・コミックの振興を目指してコミック新人賞の設立や作家養成キャラバンといった活動を行ったり、国家文化芸術委員会英語版の助成を受けて全国コミック会議を立ち上げ[96]、コミックの認知を高めた[98]

コンベンションでフィリピン人作家の作品が売られている。

2000年代以降にはコミック作家の活動が多様化し、コミック外の出版社やフィリピン国外から仕事を請け負ったり、自ら出版を行うのが一般的になった[96][91]。自己出版は多様な作品が描かれる土壌となった[99]。アランギランは2000年代後半に自身のコミケロ・パブリッシングからニワトリを主人公とする社会派ドラマ『エルマー』を出し[96][100]、米国コミック界の主要な賞であるアイズナー賞にノミネートされた[101]。コミックやアニメ、ゲームのようなサブカルチャーのファンによるコンベンションがいくつも開催され(KomikonやKomiketなど)、インディー作家にとって貴重な交流と作品発表の場となっている[93][102][99]。ウェブ上のファン活動も盛んであり、中でもアランギランのサイト、コミケロ (Komikero) はオンラインのコミックミュージアムのような位置づけにある[93]

現代: 2010年代以降

2010年代のコミック出版は近代化が進み、ピノイ・マンガ、グラフィックノベル、古典的コミックのように多様な流れがある[103]。IT技術は国外から影響を受け入れるのを容易にするとともに新しい発表の場も作り出した[104]。アマチュアがウェブコミックを発表するフィリピン発のプラットフォームはいくつかあり[注 6]、韓国のウェブトゥーンで頭角を現す作家も出てきた[99]。ポール・メディナのようにオンラインでの作品発表と収益化を試みているベテラン作家もいる[74][105]。2021年にブジェッテ・タンの『トレセ』がアニメ化されてNetflixでウェブ配信された(日本語版タイトル『異界探偵トレセ』)ことで国際的な関心が高まる兆しも見えている[99]。コミックは一つの芸術様式として認められつつあり、ラヴェロやコーチンら初期の作家の回顧展が頻繁に行われている[103]。文芸書の出版に関わる政府機関がコミック作品に賞を授与する例も現れた[103]。2010年にはグラフィックノベルのアーカイブ事業に関する法案が提出された[93]。大学のカリキュラムにコミックが取り入れられ始め[106]、大学生の団体からコミック作家が排出されている[107]。発行部数では過去に及ばないものの、コミック文化は活況を呈していると言える[102]

出版形式

伝統的なフィリピン・コミックの形式は1990年代には固まっていた[108]。米ドルにして17-20セント[注 7]で売られるカラー32-48ページの週刊コミックブックには、読み切り短編(ワカサン)と連載作品(ノベラ)が数編ずつ、1編あたり4ページで掲載されるのが普通で、ほかにクロスワードパズル、1コマのギャグ漫画、文章記事(有名人のゴシップ、伝記、生活の知恵など)、文通欄、広告が載せられた[70][108]。作品の題名は親しみやすいシンプルなもので、日常的な事物をそのまま題名にしたり、主人公の名(フィリピンで一般的な「特徴+ファーストネーム」の呼び方)を用いる、あるいは有名人や著名なキャラクターの名をもじったものが典型だった[68]。コミックブックはニューススタンドなどを通じて販売され、盛んに回し読みされた。路上に貸本屋が存在したほか、家庭内や隣人間での貸し借りにより、1冊が少なくとも6人によって読まれたと見積もられている[39]

国産コミックブックは1990年代に衰退し、コミック専門店で売られる米国産コミックブックや、総合書店で売られる書籍形式のグラフィックノベル(英語版の日本漫画を含む)が一般的になっている[109]。フィリピン伝統のコミックブックも内容や製本を現代的にリニューアルした形で大学生や都市部の富裕層を対象に出版されている[110]。日本漫画に影響を受けたピノイ・マンガはカラーで印刷されるのがほとんどで[5]、広いテーマを扱っており、特に8歳から25歳の女性に人気である[81]。中高生向けの出版物はそれまであまり一般的ではなかったため、マンガ出版社はその年代をターゲットにしている[83]

作品の特徴

画風

伝統的なフィリピン・コミックは米国コミックだけでなくチャールズ・ダナ・ギブソン英語版のような雑誌イラストレーションを源流としていた[111]。マース・ラヴェロはペルー出身のイラストレーターアルベルト・バルガスの影響で国民的キャラクターのダーナを生み出した[47]。古いコミックの復刊や普及活動を行っている漫画家ジェリー・アランギランは、アルフレド・アルカラやそれ以降の作画家がフランクリン・ブースJ・C・ライエンデッカーフランク・フラゼッタノーマン・ロックウェルのような米国イラストレーターから多大な影響を受けていると語っている[78]。それらの作画家の多くは精緻な描きこみを特徴としていた[111]。アランギランはフィリピンの画風を古典的でロマン主義的、芳醇で優美な筆遣いの描線と言っている[78]

ジャンル

主流のフィリピン・コミックは1930年代に「ケンコイ」などのユーモア漫画として始まり、続いて「クラフ」のような歴史的な英雄譚が人気を集めた。1940年代から1950年代にかけて大衆小説の伝統に連なるメロドラマが台頭した。代表的なマース・ラヴェロの『ロベルタ』は継母にいじめられる少女の物語だった[112]。1980年代になるとセックスや暴力、階級格差を扱ったメロドラマが好まれるようになった[67]。男性優位のコミック業界だがこのジャンルは例外で、20年間で350編以上の短編コミックと120本の連載を手掛けたエレナ・パトロン英語版を始め、ネリッサ・カブラルやギルダ・オルヴィダドなどの女性原作者が活躍した[67][113]

アクションやファンタジーのジャンルは男性で占められていた[114]。50年代にラヴェロは人間に恋する人魚ジェズベルや少女スーパーヒーローのダーナを作り出した[70]。不幸な主人公が魔法の品(タイプライターボールペンなど)を手に入れるタイプの作品は一般的だった[115]フリーク・キャラクターも多く、半人半獣の子供やしゃべるイルカ[68]、蛇やネズミを双子に持つ女性、三つ頭の少女、切り落とされた右手と左手がそれぞれ目を持って動き回る「ザ・ハンズ」などがある[116]。着想元となる神話はフィリピン英語版ローマギリシアのものが区別なく混ぜこぜにされていた[117]。このジャンルは1970年代にパブロ・ゴメスやカーロ・カパラスによって全盛期を迎え、1980年には全コミック誌の70%がファンタジー作品だった[117]

フィリピンではラブロマンスの人気が高く、男性作家のファンタジー作品でもたいてい恋愛の要素が含まれていた[118]。コミック研究者ソルダード・レイエスによると「大きく育ちすぎた赤ん坊、指しゃぶりを止められない男女、… なよなよした男」が愛の力によって一夜にして男らしい男、女らしい女に変わるストーリーがよく見られた[119]。1990年代にはラブストーリーが主流になり[68]、1992年の調査では人気雑誌の掲載作の半数を超えた[70]。コミック編集者エマニュエル・マルティネスはフィリピン人が基本的に恋愛体質で、感情豊かで、家族志向でありラブストーリーを好むと言っている[69]。マルティネスによると読者が求めるのはハッピーエンドの明るい作品である[70]。心根の良い娼婦、家族のために自分の幸せを犠牲にする娘、恋人に騙される女性といった主人公が悪人に打ち勝って幸せになる勧善懲悪のストーリーが数多く描かれていた[70][117]

主流のジャンル以外にも多彩な作品があり、ニュースや政治、農業、伝記、歴史のような題材を扱ったものや[78]ジェームズ・ボンド風のスパイもの、フィリピン人が世界チャンピオンとして活躍するスポーツ漫画、平凡な人物のドラマや読者投稿の体験談などが挙げられる。宇宙の冒険、臓器移植、クローン、試験管ベイビーのような題材を扱うSF風味の作品もあった[67]

米国や日本の影響を受けている作品にもフィリピンの言語、地理や文化が取り入れられることが多い。米国のスーパーヒーローが超人的な力を生まれつき持っていたり、科学や鍛錬を通じて身に着ける設定が多いのに対し、伝統的フィリピンヒーローの力は信仰に基づくもので、ダーナやパンデイ英語版などは心の美しさを認められて魔法の品を獲得する[5]。ただし1990年代には米国のヴァーティゴ・コミックス英語版イメージ・コミックスの作風をそのまま再現したようなフィリピン色の薄いシリーズも描かれた[5]

21世紀には非商業的なものも含めて多様な作品が描かれるようになった[99]グラフィックノベルはヨーロッパの「グラフィックアルバム」を源流として米国で生まれた比較的新しい形式で、フィリピン作家による作品は日本を含めて幅広い文化的影響のもとで描かれている。代表的な作品はフィリピン文化に根差したキャラクターやテーマを扱っている[5]

カトリック教徒が人口の大勢を占めるフィリピンではポルノグラフィーは法律で禁じられており、同性愛も同様に不品行と見なされる傾向がある[120]。そのためメジャーなメディアで同性愛が肯定的に描かれることはほとんどない[120][121]。カーロ・ヴェルガラによる2003年の「シャシャ・ザトゥルナ」は女性スーパーヒーローに変身するゲイ男性が主人公の作品で、コミックのLGBTQIA+表現における転機となった[121]。同作は一般社会やアカデミアから注目を受け[122]、その後は同性愛作家による自伝的なコミックも描かれるようになっている[121]

メディア展開

従来フィリピンのコミック界と映画界は協調して発展してきた。「木靴英語版履きの」フィリピン庶民の関心や願望に応えるコミック作品は大衆向け映画の原作としてうってつけだった。1986年に大手スタジオが公開した作品の3-4割がコミックを元にしていた[67]。メロドラマ、ロマンチック・コメディ、冒険もののジャンルが中心だった。映画監督リノ・ブロッカ英語版は、コミック読者の動員が見込める原作付映画で資金を確保して、アート志向の作品と交互に制作していたと語っている[67]。完結作品を映画化するだけでなく、映画制作者が原案を提供してコミック誌で連載し、実際の役者に似たキャラクターを登場させて、物語のクライマックスに合わせて映画を公開するといった例も見られた[67]

21世紀にもメディアミックスは盛んで、旧作や最新作の映像化がいずれも人気を集めている。2000年代にテレビドラマ化された古典にはマース・ラヴェロの『ダーナ英語版』(2005年)、 カーロ・カパラスの Bakekang(2006年)、フランシスコ・コーチンの Pedro Penduko(2006年)、パブロ・ゴメスの Kampanerang Kuba(2005年)がある[93]。ダーナは2016年時点で主演映画が13作、テレビドラマが3シリーズ、テレビアニメが1シリーズ制作されており[46]、バレエ公演にもなっている[93]。より近年のコミック作品の映像化には Mulawin(2004年)、Enkantadia(2005年)、Atlantika(2006年)が挙げられる[93]

フィリピン郵政公社英語版から2004年にフィリピンのコミックを題材にした切手のシリーズが発行されている。取り上げられた作品には、ギルバート・モンサントによる『マンゴー・コミックス・ダーナ』第3号、ネスター・レドンドによるダーナ、フランシスコ・レイエスによるクラフ、フランシスコ・コーチンによるラプラプなどがある[123]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ カリバピ」は日本軍がフィリピンに設立した政党[29]
  2. ^ これらのヒーローはいずれも米国のキャラクターからヒントを得ていた。ダーナはスーパーマンのフィリピン女性版として発想され[47]、キャプテン・バーベルはキャプテン・マーベル[5]、ラスティックマンはプラスティックマンを元に作り出されている。
  3. ^ トニー・デズニガの回想によると、当時のフィリピンで作画家がページ当たり50セントの原稿料を受け取っていたのに対して、米国のDC社が払っていたのは12ドルだった[63]
  4. ^ チェン・チュアによると「圧政への反乱を扱っていた『ボルテスV』のストーリーがマルコス政権によって危険視された」、「非政府系放送局への締め付けの一環」、「カトリック系女性団体に端を発した暴力表現規制」といった複数の見方が存在する[85]。日本では特に『ボルテスV』が放映を禁止されたことがよく知られているが、実際には同時に多くのロボットアニメが規制されている[86]
  5. ^ 『カルチャー・クラッシュ』の誌名は同誌が日本の画風・米国のカラーリング・フィリピンの言語によるフュージョン文化だという意図でつけられた[5]
  6. ^ Webkom AllianceKudlisPenlabがある[99](いずれも2022年12月1日閲覧)。
  7. ^ 現地ではドリンク1杯程度の価値である[3]

出典

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参考文献

関連文献

外部リンク