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吐噶喇列島

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トカラ列島(薩南諸島中部)
中之島の夜明け。フェリーとしまより撮影
宝島港の壁画。背後に女神山を望む。2007年5月
横当島の東峰のステレオ空中写真(1978年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

吐噶喇列島(とかられっとう)は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群。すべての島で鹿児島県鹿児島郡十島村の行政区域をなす。天気予報区分では奄美地方の一部としている。漢字表記が難しいことや「噶」がJIS X 0208に収録されていないため、トカラ列島と表記されることが多い。

歴史

地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。

699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが、『続日本紀』に記されている(それぞれ種子島屋久島奄美大島、トカラにあたる)。同書によればこれが度感(徳之島との説もある)が日本と通じた始まりであった。

畳表の原材料である和名シチトウの由来の地。8つの島があるのに七島というのは、小宝島を宝島に編入して数えていることによる。シチトウは別名琉球藺(りゅうきゅうい)とも呼ばれ、トカラ列島から大分県シチトウの苗が持ち込まれ栽培に成功し、後に全国の一般家庭や柔道場の柔道畳にも使われている。

柔道畳は1882年(明治15年)柔道創設時代講道館の畳にもシチトウの畳が使われ、柔道の祖 嘉納治五郎が丈夫な畳とし柔道に採用した。その後、嘉納治五郎は研究に次ぐ研究を行い、柔道畳として進化を遂げる。1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックでは、柔道会場の日本武道館でシチトウを使った畳が使われ、後のオリンピック柔道会場ではビニール素材に変わっている。このことは2008年7月財団法人日本武道館の機関紙『武道』500号の髄筆「嘉納柔道と柔道畳復元」として掲載されている。嘉納柔道畳のルーツとも言われている。

沿革

4つの群島政府は、翌年3月末日までは形式的には存在したため、この地域には2種類の政府が存在した。

主な島

列島へのアクセス

3日に1便程度。宝島 - 名瀬港は2便に1便のみ運航。

その他

  • 2009年7月22日皆既日食観測の可能性があった(観測できる範囲は、屋久島から奄美大島北部)。特に悪石島は、島のすぐ北側の海上を皆既帯の中心線が通っていることから、世界各地から観測者が訪れたが、結局、当日の暴風雨のため観測できなかった(詳しくは2009年7月22日の日食を参照)。
  • 2012年5月21日金環日食観測の可能性があったが、この時も曇天であまりよくは観測できなかった。(詳しくは2012年5月21日の日食を参照。
  • 悪石島と宝島の間に、「渡瀬線」という分布境界線が走っている。両島の間には水深1000mの「トカラギャップ」と呼ばれる海裂が横たわっており、これが「渡瀬線」を形成しているのではないかと推定されている。ハブなど、九州本土と沖縄県奄美群島との動植物の境界である。

関連項目

外部リンク